1994年12月31日、日本武道館でファーストコンサートを行う[13][22]。
1996年10月には一気に5本(剛は単独の冠番組を含め、光一は主演ドラマ含めると共に6本)も新レギュラー番組がスタートするなど、瞬く間にお茶の間に浸透。同年の『第47回NHK紅白歌合戦』では、事務所の先輩である近藤真彦のステージに応援ゲストとして登場[23][24]、「ミッドナイト・シャッフル」の冒頭のサビをKinKi Kidsが歌うというサプライズ演出がなされた。 1997年5月29日[25]、ジャニーズ事務所がレコード会社「ジャニーズ・エンタテイメント」を設立し、その第1弾アーティストとしてKinKi Kidsがデビューすることが決定[26]。赤坂にある豊川稲荷東京別院でデビュー報告会見が行われたが[26]、デビューすることは本人たちにも前日まで知らされていなかった[25][27]。発表後は会見映像が新宿駅東口前のアルタビジョンや渋谷駅ハチ公前交差点のアストロビジョンなど計5か所で流され、この一連のプロモーション費用は3000万円にものぼった[25][27]。 1997年7月21日、シングル『硝子の少年』、アルバム『A album』の同時発売でCDデビューし、共にオリコン初登場第1位を獲得、ミリオンセラーを達成した。『硝子の少年』はオリコン調べで売り上げ178万枚、ジャニーズ・エンタテイメント発表によると出荷枚数262万枚[28]。オリコン調べによるアイドル歌手のデビューシングルの売り上げとしては、小柳ルミ子の「わたしの城下町」(1971年、134万枚)の記録を26年ぶりに更新し[29]、1997年度のシングル売り上げ2位を記録した[30]。また、1998年3月26日開幕の第70回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも選曲された[31]。 デビュー以降に発売したシングルは全て、オリコンで初登場1位を記録。『硝子の少年』・『愛されるより 愛したい』・『全部だきしめて/青の時代』・『フラワー』の4作はミリオンセラーを記録し、出荷枚数ではデビュー作から11作連続で100万枚を超えている[28]。そして2002年1月1日、東京ドームで行なわれたコンサート中に“デビュー以来シングル13曲連続オリコンチャート1位”の記録がギネスに認定されたことが発表され、ステージ上で認定証が公開された[28]。ギネス社への申請は2001年5月10日に事務所により行われており、通常2年かかるという審査をわずか7か月で通過し、12月10日に認定を伝えるファックスが到着[28]。12月24日にギネス社幹部のマイケル・ファルドマンが認定書を持って来日したが[28]、このことは本人らにはコンサート開演直前まで伏せられていた[32]。この記録は2002年2月28日発売[33] の『ギネス・ワールド・レコーズ 2002 日本語版』に2ページにわたってカラー・写真入りで掲載され[34]、日本人として初めて音楽部門でギネスブックに名を連ねた[33]。また、今までギネスの音楽データは全英や全米チャートを基にしたものが多かったが、このことで「オリコンチャート」が世界標準として認められた証となったため、イメージアップに貢献したとして2002年5月2日にオリコンの垂石克哉 2023年12月27日に発売した『シュレーディンガー』でデビューシングルから47作連続で初登場1位を獲得[38]。また、『Amazing Love』までの45作連続1位記録がギネスに登録されている[39]。 1997年8月23日 - 24日、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のパーソナリティーを務め、光一は番組内の特別ドラマ『勇気ということ』の主演も務める。 1997年12月1日、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災へのチャリティー活動として1997年までにデビューしていたTOKIO・V6・KinKi Kidsが合体し、J-FRIENDSを結成することを発表した。活動期間は、震災発生当時の小学校1年生が義務教育を終える2003年(平成15年)3月まで[40]。
CDデビュー
シングル連続首位記録
1990年代