Ken
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で、なんとなく、別に何か弾きたいっていうわけじゃなかったんだけど、単純に触ってみたいっていう興味だけで、そのギターに触ってみたいと思って、触ってみたらなんか楽しくって…ずっとそのまま。もらっちゃった!みたいな感じ[5]」「ただ、人の曲を弾こう思ってコード譜を見ても、すごく難しくて上手く弾けなかったんですよ。それで、開放弦を利用してEmをEm7にしてみたり、FをFMaj7にしてみたり、自己流で崩して弾いたときの、響きの美しさに魅了されて好きになりました[6]」と述懐している。その後、kenはエレクトリック・ギターを手にし、音楽に傾倒していくこととなる。

さらにこの頃は、実家の向かいに住んでいる一つ上の先輩(愛称:コウちゃん[7])の家に、近所に住んでいた一つ下の幼馴染のtetsuyaと3人で放課後に集まり、ほぼ毎日レコードを聴いていたという[7]。kenは1996年に発売されたインタビュー本で、この頃のエピソード振り返り「俺が先にコウちゃんちに帰ったら、後からそこへtetsuが帰ってくる。その頃ってレコードを買ったらまずそこで聴く!みたいな感じだった。新しいのを見つけたらテープに録って、こんなんあるよ!とか。いろいろ聴きながらウダウダしてたよなぁ、ずーっと[7]」と述懐している。なお、この3人の集まりは、一つ上の先輩が高校を卒業するまで続けられたという[8]。ちなみにkenは、中学校の文化祭で初めてステージに立っており、オジー・オズボーンのコピーをしている。ちなみに、kenはこのときヴォーカルを担当しており、「ミスター・クローリー」をア・カペラでコピーしたという[9]

高校に入学した後は卓球部に入るが、本格的な練習を強いられる部活だったようで、次第に行かなくなり帰宅部になったという[9][10]。そしていろいろなバンドにギターで参加するようになり、この頃から自分で曲を書くようになった[9]。kenはこの当時について「ギター弾きながらオリジナルを作ったりしてた[9]」「でも友達はコピーが中心だったな。俺ね、コピーは苦手だったんですよ。それに、なぜか曲を作りたい!っていう気持ちが強かった。だからと言って、その先それでどうすんだろう?っていうのはなかった[9]」と語っている。余談だが、kenは高校の頃にtetsuyaに誘われ、ギタリストの脱退したByston-Wellに参加したことがあった[11]。ただ、大学進学のため、わずか1年ほどでByston-Wellを抜けている[12]。なお、後年tetsuyaは、この当時のkenについて「kenちゃんは当時からいい曲を書いていた」と述懐している。

上記のように高校生の頃からバンド活動、作曲活動を行っていたが、プロミュージシャンになろうという強い思いもなく、高校3年生になったタイミングでは「とりあえず大学に進学しよう」を考えていたという。そしてkenは、名古屋工業大学工学部への進学を決めている。なお、kenの家系には教師の職に就いている者が多かったため、当初kenは「先生もいいかな」と思っていたという[10]。しかし、教師ではなかった父親からの反対もあったため[10]、工学部への進学を決めたという。後年kenは、教師を目指すことを父親に反対されたエピソードについて「先生家族だったせい、その裏返しだったのかもしんない[10]」と語っている。
大学時代 - tetsuyaからのバンド加入の誘い

大学に進学したものの、ken曰く「明確に何になりたいっていうのはなかった」といい、大学へ行ったり行かなかったりを繰り返していたという[10]。この頃を振り返り、kenは「1年行って、1年全く行かなくなってとか。で、また1年行ってとか。そういう感じだったな[10]」「人生がどこ行くかっていうのが決まることなのに、それほど深く考えてなかった[10]」と述べている。こうした生活の中でkenは、再び何の気なしにバンドを始めるようになり[10]、音楽の道も漠然と考えるようになったという。kenは当時のバンド活動について「バンドをやりつつ、なんかちょっと違うなぁ…と思うと、学校に行ったりとか。そういういい加減な感じで毎日を過ごしてましたね[10][13]」と述懐している。

そして大学で専攻を選ぶ頃になると、kenは学業に興味が移り始めていったという。kenは、学業に興味が移り始めたころの心境について「学校に行きだすと、学校の面白さが今度は出てきてね。専門の授業が面白くなってきて。ああ、これはこれで面白いなと思いつつ、だからバンドと大学での勉強が、並行して進んでいった[13]」と述懐している。なお、kenが大学4年生のときに入った大学の研究室は、市之瀬敏勝が助教授を務めていた、コンクリートの耐震強度などを研究するゼミであった[14]。市之瀬は、学生時代のkenについて「ピアスして前の方に座ってね、結構質問してくるんだよね。だいたい僕は授業のときには出席って全然取らない。だから人の名前って全然覚えないんだけど、北村君(=ken)の名前だけは覚えてたね。それで4年のときに(ゼミに)来てくれたから嬉しかった[14]」と述懐している。一方、kenは市之瀬のゼミの印象について「なんか難しい話が、先生と話してると、なぞなぞみたいになってくる…なぞなぞって言うと変だけど、勉強じゃなくなってくるから。勉強!勉強!じゃなくして話せてたから、いいなぁって思ってた[14]」と述べている。

こうして建築学を専攻し始めたkenだったが、ゼミに入って約2ヶ月ほど経った1992年のある日、tetsuyaから「L'Arc?en?Cielに加入してくれないか」という電話が来ることになる[14]。当時のL'Arc?en?Cielは、初代ギタリストのhiroが脱退してしまった頃で、新たなギタリストを探していた最中であった。そして、L'Arc?en?Cielのボーカリストであるhydeがtetsuyaに「kenは、どう?[15]」という提案をしたこともあり、kenに加入打診をする流れとなった。hydeは、kenにバンド加入の打診をした背景について「以前から、kenの存在は知ってたんだ。tetsuyaの幼なじみで一緒にバンドをやってた人ってね。L'Arc?en?Cielのライヴにも何回か来てて、挨拶程度しかしてなかったけど、kenがやってるバンドのデモテープを聴かせてもらったりしてて、すごくいい曲を書くし、すごくカッコいいギターを弾くなって思ってたから、すぐに思い浮かんで[15]」と2012年に発表した自叙伝で述懐している。
L'Arc?en?Ciel加入、様々なバンド・プロジェクトでの活動 - 現在

tetsuyaがバンド加入の打診をしたときにkenは、学業と並行して就職活動も行っており、とあるゼネコンの一次面接に通った段階にあったという[15]。そしてkenは、就職とバンド加入のどちらを選ぶか数日間考え、音楽の道に進むことを決断し、L'Arc?en?Cielへの加入を承諾する。こうしてkenは、L'Arc?en?Cielが当時活動場所としていた大阪に移ることになった。なお、kenはこのタイミングで大学に退学届を出しておらず、あえて休学としていた。そして1997年に当時のドラマー、sakuraが逮捕されたことによりバンドが活動休止した際に、再び大学に通い、翌年3月に卒業している。

kenはL'Arc?en?Cielに加入した後、ギタリスト、そしてメインコンポーザーの一人として楽曲制作およびライヴ活動に携わるようになった。特にL'Arc?en?Cielが活動初期の頃に発表したアルバム (『DUNE』-『True』) の収録曲は、ken作曲の楽曲が半数以上を占めており、それ以降のアルバム制作においてもkenが中心的なコンポーザーの役割を担っている。また、kenが加入した直後の1992年10月1日に発表されたオムニバスアルバム『Gimmick』には、kenが手掛けた楽曲「VOICE」が収録されているが、この曲がL'Arc?en?Cielとして初めてCDに収めたスタジオ音源となった。そしてL'Arc?en?Cielは、紆余曲折がありながら、ken加入から約1年後の1993年5月に1stアルバム『DUNE』を発表。1994年7月にはメジャーデビューシングル「眠りによせて」、2ndアルバム『Tierra』をリリースし、メジャーレーベルでの活動を開始した。メジャーデビューしてからもL'Arc?en?Cielは、メンバーチェンジを挟みながら活動を進め、30年以上のキャリアを積んでいくことになる。(その後の活動の詳細は『L'Arc?en?Cielの頁』を参照)

L'Arc?en?Cielとしての活動が約10年ほど続いたころ、2001年半ばあたりから、一部のメンバーの希望もあり、それぞれソロワークスを始めるようになる。ただ、kenはL'Arc?en?Cielでの積層するスケジュールに疲れていたこともあり、メンバーの中で唯一この年にソロワークスや別バンドでの音楽活動を行わなかった。なお、ken曰く、2001年は「麻雀野球しかしてなかった[16]」という。休養から約1年ほど経った2002年から、再びギターを弾き始め、L'Arc?en?Cielの元ドラマーであるsakuraに声をかけられたこともあり、ファッションモデルのEinを誘い、スリーピースバンド、SONS OF ALL PUSSYS(略称:S.O.A.P.)を結成し、別バンドでの活動を開始した。ken曰く「(SONS OF ALL PUSSYSで)CDを出すつもりはなかった[17]」といい、バンド結成後半年間はライヴハウスでのライヴを中心に活動していたが、2003年2月6日に初の作品となる、1stミニアルバム『GRACE』を発表している。ちなみにken曰く、S.O.A.P活動当初はスマッシング・パンプキンズジェフ・バックリィといったアーティストを意識した楽曲を制作しようと考えていたというが[18]、バンドで音源を作っていくにつれ、様々なアプローチで楽曲制作が行われるようになった。また、2003年から2004年にかけてS.O.A.P.主催によるライヴイベント「BUBBLE FESTiVAL」を開催。このイベントには、HYDEやacid androidといったL'Arc?en?Cielのメンバーのソロプロジェクトに加え、清春La'cryma ChristiMONORALLUNKHEADといったバンドが参加している。さらにS.O.A.P.は、2003年に野外ロック・フェスティバルSUMMER SONIC 03」に出演している。


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