K_DUB_SHINE
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出典検索?: "Kダブシャイン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年7月)

Kダブシャイン
出生名各務 貢太〈かがみ こうた〉
別名K DUB SHINE(旧表記)
生誕 (1968-05-08) 1968年5月8日(56歳)
出身地 日本東京都渋谷区富ヶ谷
ジャンルヒップホップ
職業ラッパータレント
担当楽器
活動期間1993年 -
共同作業者キングギドラ

Kダブシャイン(ケーダブシャイン、本名:各務 貢太〈かがみ こうた〉[1]1968年5月8日[1] - )は、日本のヒップホップMCタレント

ヒップホップグループキングギドラのメンバー。かつて所属していた事務所はワタナベエンターテインメント[2]。旧表記はK DUB SHINE。東京都渋谷区出身[1]。独身。

1995年にキングギドラのメンバー及びリーダーとしてアルバム『空からの力』でデビュー。1997年にアルバム『現在時刻』でソロデビューし、2006年12月にはradio aktive projectを結成[1][3]

2015年から2021年まではワタナベエンターテインメントに所属し、地上波ゴールデンタイムのクイズ番組などにも出演する等、活動の場を広げた[4]。なお、ワタナベエンターテインメントにはミュージシャンやタレントではなく文化人として所属していた[5]
来歴

東京都渋谷区富ヶ谷にて母一人子一人の母子家庭に育つ[6](1980年代には同区神山町に転居)。 幼少の頃は病弱で、入退院を繰り返しており、小学生になるまで生きられないかもしれないと言われていたという。小学校時代には、中学受験のために四谷大塚へも通塾していたが、地元の渋谷区立松濤中学校に進んだ。高校は町田市にある私立高校へ入学。すぐに中退して、産経新聞社の主催する交換留学制度を利用して、アメリカ合衆国フロリダ州の高校へ留学。帰国後はテンプル大学ジャパンキャンパスに通ったが、後に中退した[7]

1980年代半ば頃にアメリカのヒップホップに出会い、後に自身もラップをするようになる。当初は、日本語はラップには向かないと考え英語でラップをしていたが、アメリカ人の友人に「何故日本語でラップしないのか」と問われた事をきっかけに、日本語によるラップを模索しはじめる[8]

1993年 友人であったZEEBRAに自身の日本語によるラップを聴かせたところ意気投合し、ZEEBRAの幼馴染のDJ OASISを加え、日本語ラップグループ キングギドラを結成する。グループでは自身が活動コンセプトを発案し、リーダーを務める。

1995年 キングギドラのメンバーとしてアルバム『空からの力』でレコードデビュー。

1996年 ヒップホップイベントさんピンCAMPに出演。ソロ曲「機能停止」も披露する。キングギドラとしての活動を停止し、ソロでの活動を開始する。同年発行のS.H.フェルナンドJ.R.著 石山淳 訳『ヒップホップ・ビーツ』に翻訳協力・アルバム解説という形で参加している。

1997年 カッティング・エッジよりアルバム『現在時刻』を発表しソロメジャーデビュー。DJ OASISらと共にアトミックボム・プロダクションズを設立する。

1998年 MISIAの楽曲「陽のあたる場所」のリミックス曲に客演として参加。法務省主催の「社会を明るくする運動?HIP HOPを見て聴いて若者を語る?」に若者と大人を繋ぐ存在として参加。ヒップホップをほとんど聞かないような参加層の前でラップを披露。ヒップホップと社会との関係性を語り、若者と社会(大人)、双方の歩み寄りを訴えた。 ちなみに主催した政治家と友人であり、昔は一緒に悪い事をした仲でもある。

1999年 アトミックボム・プロダクションズを法人化し、渋谷を拠点に本格的に事業を開始する。

2000年 2ndアルバム『生きる』をリリース。2001年 ミニアルバム『SAVE THE CHILDREN』をリリース。

2002年 キングギドラを再結成。発表したシングルが次々オリコンチャートインし、地上波ゴールデンタイムの音楽番組である『ミュージックステーション』、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』、CDTVに出演、知名度を上げる。同年に発表したアルバム『最終兵器』はオリコン初登場3位にランクインする。自身やキングギドラのPVを手掛ける薗田賢次が監督を務め、親交のある窪塚洋介が主演した映画『凶気の桜』で初の音楽監督を務める。児童虐待をテーマにしたコンセプトアルバム『CHANGE THE GAME』に参加。

2003年 初のベストアルバム『世界遺産』を発表。カッティングエッジからソニーミュージックレコーズに移籍、11月27日「オレはオレ」をリリースし、ソロ活動を再開。

2004年 自身の生い立ちや半生を綴ったコンセプトアルバム『理由』を発表。収録曲「来たぜ」の中のリリックからDEV LARGEとのビーフが勃発(後述)。出演しているスペースシャワーTVの時事放談番組『第三会議室』が放送を開始。

映画『デビルマン』に楽曲「彼が去れば」を提供。同曲を収録したEP『自己表現』をiTunes Storeで配信[9]。DJ OASISと共にRadio Aktive Project(後にradio aktive projeqtに改名)を始動。

2007年 映画『それでも生きる子供達へ』の応援ソングとして書き下ろした楽曲「ソンはしないから聞いときな」を配信[10]。自身の半生を綴った書籍『渋谷のドン - Kダブシャインと渋谷のリアルな30 年史』を発表。

2008年 映画版及びOVA版『デトロイト・メタル・シティ』の劇中曲に「フロムNYシティ」を提供。アニメ版には声優として出演もしている。妄走族のメンバー剣桃太郎と同席し和解[11]

2009年 5月27日、Radio Aktive Projeqtとしてファーストアルバム「neworlder」を発売。8月5日、少年犯罪事件の犠牲者となり他界した高校生(ケンタS)が生前に録音していたラップ曲を、高校生がキングギドラのファンだったと知ったDJ OASISと共に「今の世の中」としてiTunes Storeで配信。名義は「K ダブシャイン feat. ケンタS」

2010年 1月27日、新曲3枚と2009年に発表した「今の世の中」を含む、2枚目のベストアルバムとなる「自主規制」を発売。

2011年 3月18日、自身のTwitterにて、キングギドラ名義で東北地方太平洋沖地震の被災者への義援金チャリティーコンサートを行う計画を立てていることを明かす[12]4月30日、キングギドラを再結成させ、大阪城野外音楽堂で開催された東北地方太平洋沖地震チャリティーライブ「KEEP YOUR HEADS UP!」でライブを行う。

2012年 9月19日、昨年発生した東日本大震災から、その後の日本の状況についてまでの心情を綴った約8年ぶりとなるシングル「沈まぬ太陽」を発売。
人物・その他

この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2015年4月)


愛称は「コッタ」「コッちゃん」。別名は「ビッグコッタ」「渋谷のドン」「最後の皇帝」「K二乗(K自乗)」「Mr.Atomic Bomb」「ミコータ・カガ」等多数。インターネット掲示板では「Kダブさん」や「かがみん」と呼ばれることもある。

名前のK DUBは本名のイニシャルK.K(KのDouble→Dub)から来ている。この名前に定着する以前は、「MC SHINE」や「サムライマー」と名乗っていた[要出典]。

若い頃は不良で、渋谷区宇田川町に在った「Rビル」(2008年に解体)の前に集まっていた事から、「R's(アールズ)」という集団を結成していた[6][13]。しかし、本人達はこれをいわゆるチーマーの集団(チーム)ではなく、自警団と称していたようである[6]

子供の頃に剣道サッカーをやっていた。中学時代はサッカー部だった[8]

アメリカに8年間留学していたため英語が堪能であり、現地の大学にも通っていた事から文法的にもかなりしっかりした英語を話すことが出来る[8]

を踏まないとラップではあるけどヒップホップではない。」と述べており、押韻に関しては語感さえ合っていれば全て母音が合ってなくてもいいとし、簡単に踏める韻と自分にしか踏めない韻を織り交ぜていくのをスタイルとしている[14]

朝まで生テレビ!』の「激論! 2009年"崖っぷち"ニッポン?脱・貧困!ドーする?!経済・雇用危機?」に観客として参加していたが、風邪をひいていたため収録中苦しい思いをしたと述べた[15]

仮面ライダーが好きで、宇多丸によると一時期玩具のコレクションもしていたという[16]

ジムのジャグジーで騒いでいた十一代目市川海老蔵を叱ったことがある。2010年、海老蔵が傷害事件に遭った事件が報道された後、犯人が色黒の男ということである歌舞伎関係者に犯人でないかと疑われ困ったという[17]

いわゆるツッコミというものに価値を見出さず、面白いことやおかしいことはそれ以前に決まっていると考えている。またいちいちオチをつけて話すような風潮にも否定的である。[18]

他のラッパーとの関係

この節には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2014年5月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2014年5月)



DEV LARGEとのビーフ

2004年6月19日、BUDDHA BRANDDEV LARGEと思われる人物がK DUB SHINEをディスした曲、「ULTIMATE LOVE SONG」がとあるサイトにアップされ、一気にビーフに発展した[19]

内容は、K DUB SHINEの新作『理由』の収録曲である「来たぜ」の中での、「BUDDHA BRANDとのバトルは俺が完全に食った」といった挑発的な内容の歌詞が発端。また、英語を多用するDEV LARGEとして、K DUB SHINEが日本語ラップと言いながら英語を多用するバイリンガル・ラップを、以前から批判していたことに激怒したことが原因であった。

6月22日にDEV LARGEがInterFMのラジオ番組『Joint One Radio Show / DEN説の火曜日』に出演し、この曲をかけたため本人によるものである事が発覚した。K DUB SHINEは大激怒し、10日後の6月22日にアンサーソング「1 THREE SOME」を同じくネット上で発表。内容は「急にどうしたのか」という様な問いかけやDEV LARGEがソロアルバムを出していないことへの皮肉などを、顔を赤くしながら歌うものであった。これに対しDEV LARGEは激怒し、肩を震わせながら更なるアンサーソング「前略ケイダブ様」を発表した。

なお、DEV LARGEは2006年にソロアルバムをリリースした。

2013年MAKI THE MAGICの死を機に両者は和解した[20]

なお、後にK DUB SHINEの「1 THREE SOME」はDJ MASAKI『BEST OF K DUB SHINE(Blendz Version)』に収録され、DEV LARGEの「ULTIMATE LOVE SONG」、「前略ケイダブ様」は刃頭のミックステープ『現場デ炸裂』に収録されている(『前略ケイダブ様』は『前略、ケイダブ様お元気ですか?pt.2』として)。また「ULTIMATE LOVE SONG」はI-DeAのアルバム『self-expression』に「Ultimate Love Song(Letter) feat. MONEV MILS & 漢」として別バージョンが収録されている。


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