KFCコーポレーション
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日本法人については「日本ケンタッキー・フライド・チキン」をご覧ください。

KFCコーポレーション
KFC Corporation
種類デラウェア州株式会社
完全子会社
本社所在地 アメリカ合衆国
ケンタッキー州ルイビル
設立1952年 (72年前) (1952)
業種飲食業
事業内容レストランの経営、鶏肉料理及び関連料理の販売
代表者ロジャー・イートン社長
主要株主ヤム・ブランズ 100%
関係する人物カーネル・サンダース(創業者)
外部リンクglobal.kfc.com
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KFCコーポレーション(KFC Corporation、ケンタッキー・フライド・チキンの略称)は、アメリカ合衆国のファストフードチェーン。

世界規模で展開し、世界で初めてフランチャイズビジネスを創始した。現在はペプシコ社から分派したヤム・ブランズの傘下である。
歴史詳細は「ケンタッキーフライドチキンの歴史」を参照ケンタッキー州ノースコービンのハーランド・サンダース・カフェ・アンド・ミュージアム(英語版)

カーネル・ハーランド・サンダース1890年に生まれ、インディアナ州のヘンリービル(英語版)郊外の農場で育った[1]。13歳で実家を離れたあと、サンダースは鉄道職員や保険外交員などいくつかの職業に就いたが、そのキャリアは常に順調というわけではなかった[2]

1930年、サンダースはケンタッキー州ノースコービン(アパラチア山脈のはずれにある小さな町)を通る国道25号線沿いのシェルガソリンスタンドの経営を引き受けた[3]。その年の6月までに、サンダースは物置を改造して自前のダイニングテーブルを設置し、小さな食事スペースをつくった上で、立ち寄ったドライバーにステーキカントリーハムなどの料理を提供するようになった[4]1934年、反対側の給油所の方がドライバーの視界に入りやすいため、サンダースは国道25号線の向かい側にあるピュア・オイル(英語版)のガソリンスタンドの経営を前任者から引き継いだ[5]。サンダースがフライドチキンの販売を始めたのもこの時からだった[6]。1936年までには、サンダースが経営するビジネスの成功は広く認められるものになっており、ルビー・ラフーン知事からケンタッキー・カーネルの名誉称号を授与されるほどだった[7]1940年7月、サンダースは「11種のハーブとスパイスからなるオリジナルレシピ」として後に知られるようになるレシピを完成させた[8]

1950年ローレンス・ウェザビー知事によってケンタッキー・カーネル(名誉大佐)に再任命されたあと、サンダースはその立場にふさわしい服装をするようになった。ヤギひげを生やし、黒のフロックコート(後に白のスーツに変更)とストリング・タイを着用したサンダースは、自らを「カーネル」の肩書きで呼んだ[9][10]。サンダースのレストランの客のほとんどは車で移動するドライバーであり、1955年に計画中の州間高速道路75号線のルートがケンタッキー州コービンをバイパスすることが公表されたとき、サンダースは資産を売り払ってアメリカ各地を回り、レストランのオーナーに自らのフライドチキンを売り込んだ[11]。サンダースは、1952年にはすでにユタ州サウス・ソルトレイク(英語版)市のピート・ハーマン(市内でも最大規模のレストランの経営者)にフライドチキンのレシピをフランチャイズして成功を収めていた[12]

「ケンタッキーフライドチキン」という名称は、ハーマンが雇った看板書きのダン・アンダーソンによって創り出された[13]。サンダースは、この名称が自分のフライドチキンと一般のレストランで提供される「南部風フライドチキン」(ディープフライで調理される)をはっきりと区別するのに役立つと考え、自らのビジネスにも取り入れた[14]

1964年、サンダースはジョン・Y・ブラウンらのグループに200万ドル(2013年の貨幣価値で約1500万米ドル)でKFCを売却した[7]。売却に際しての契約内容には、サンダースへの終身給与の支給に加え、サンダースが品質管理責任者として役職にとどまり、会社のトレードマークとしてコマーシャルに出演するという合意が含まれていた[15][16]1967年までに、KFCはアメリカで6番目に売上高の大きいレストランチェーンに成長しており、その売り上げの30パーセントがテイクアウトによるものだった[17][18]。1970年には、KFCチェーンは48の国で3000の店舗を抱えていた[17]。1971年7月、ブラウンはKFCを、コネチカット州に本拠を置く加工食品・加工飲料会社のヒューブライン(英語版)社に2億8500万ドル(2013年の貨幣価値で約16億米ドル)で売却した[19]。ヒューブライン社には過去にファストフード店を経営した経験がなく[20]、その自信過剰な経営は香港のような海外市場においてKFCを失速させた。1975年には2年間の活動の後、KFCは香港での事業から撤退した[21]1977年、ヒューブライン社はマイケル・A・マイルズをKFCチェーンの経営者に抜擢した。マイルズは、経営難のKFCを原点回帰路線で立て直した功労者と見なされている[22]

1980年には、肺炎によりハーランド・サンダースが90歳で死去した。サンダースは死の直前まで、自らの商品を宣伝しつつ、年間20万 - 25万マイルを主に車を利用して旅していた[23][24]

1983年の時点で、全世界55の国で5800のKFC店舗が存在していた[25]。同じ1983年には、ゼネラル・シネマ(英語版)がヒューブライン社の株式の18パーセントを取得した。敵対的買収を警戒したヒューブライン社は、タバコ会社R.J.レイノルズに自社のホワイト・ナイトとなるよう申し入れ、R.J.レイノルズが13億ドルでヒューブライン社を買収することになった[26]。R.J.レイノルズの傘下となったKFCは、1983年にマクドナルドチェーン全体で展開されたチキンマックナゲットとの競争を強いられた。KFCは1985年に「ケンタッキーナゲット」と呼ばれる独自ブランドのチキンナゲットを発売した[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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