KENSO_(プロレスラー)
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KENSO
プロフィール
リングネームKENSO
KENZO
ケンゾー・スズキ
鈴木 健想
鈴木 健三
本名鈴木健三
ニックネームミスター・パッション
極悪ワールド・スタンダード
暗闇の総帥
ライジングサン
身長191cm
体重118kg
誕生日 (1974-07-25)
1974年7月25日(48歳)
出身地愛知県碧南市
所属フリー
スポーツ歴ラグビー
トレーナー佐々木健介
山本小鉄
デビュー2000年1月4日
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KENSO (プロレスラー)

KENSO[1](ケンソー、1974年7月25日 - )は、日本男性プロレスラーテレビプロデューサー。本名:鈴木 健三(すずき けんぞう)。愛知県碧南市出身。血液型O型。
経歴
デビュー以前

刈谷北高校ラグビーを始め、高校3年時には国体の愛知県選抜と高校日本代表に選出された。進路は明治大学を志望していたが帝京大学の推薦入試を受けて入学した。しかし合宿所にいることわずか4日にして退部・退学してイギリス留学に向かい、進路を再検討する[2]。イギリスではバースに1年間滞在していたが、当時のイギリス王室に関する報道姿勢を目の当たりにしたことで、のちのテレビ界入りの動機の一つとなった[3]

かねて憧れていた明治大学に1年遅れで編入し、明治大学ラグビー部に在籍する事になった。厳しい事には定評があった当時の明大ラグビー部の合宿所生活に耐えて2年生からレギュラーポジションを獲得、大型ロックとして活躍する。1996年より2年連続で大学日本一を経験し、98年は大学日本一こそ逃したものの2学年下の斉藤祐也と共に重戦車FWの中心的存在となった。この年にはラグビー日本代表チームの一員に選出されたということが一般的に紹介されるが、これは日本代表A(日本代表の予備軍、通称ジャパンAである。A代表 (ラグビー)を参照)の合宿に呼ばれたものである。またこの年にはラグビーマガジン誌上のファン投票によるベストフィフティーンにも選ばれている。

その後「中日新聞社と東海テレビを記念受験」し[3]、大学卒業後に東海テレビにUターン就職し、東京支社のネット営業部に勤務。それまでプロレスとは縁が無かったが、たまたま立ち寄ったスポーツ用品店(本人は「博報堂の1階にあったスーツの仕立て屋」と語っている[3])の店主を通じて坂口征二と出会う。坂口の熱烈なスカウトにより東海テレビを退社し、1999年4月1日、新日本プロレスに入団した[4]。交際中だった、大学の同窓で福島中央テレビのアナウンサーだった水野浩子を説得し東京へ戻している。
新日本プロレス

2000年1月4日の中西学戦で、鈴木健三としてデビュー。坂口征二の後輩であり、また当時の現場監督だった長州力のプッシュを受けたこともあり、同年、第8回ヤングライオン杯をデビューわずか4か月にして制し、プロレス大賞新人賞を受賞した。

2001年に、棚橋弘至とともにタッグチームキング・オブ・ザ・ヒルズ (King Of The Hills、略称 KOTH)を結成。俗に棚橋(タナハシ)と健三(ケンゾウ)で通称タナケンとも称された。その後、キング・オブ・ザ・ヒルズに佐々木健介ブルー・ウルフを加えたメンバーでスウィング・ロウズ(SWING-LOWS)を結成。さらには、リングネームを鈴木健三から鈴木健想(読みは同じ)に改名した。
WJプロレス

2003年にWJプロレスに移籍。同年、浩子と結婚する。
WWE

2004年からは同団体を退団。活動拠点をアメリカに移しTNAにスポット参戦した後、WWEの試合会場にて直談判したことで急遽当日試合に参加、そのキャラが気に入られに入団契約。WWEでは当初「ヒロヒト」というリングネームで、アメリカに太平洋戦争の復讐をしようとする日本人のギミックが与えられる予定であった。当初は北斎、海舟、尊氏、雷電などのリングネームが用意されていたが、同団体社長のビンス・マクマホンがヒロヒトに決めてしまった。その後、登場予定のスマックダウンではこの名前で登場予告プロモが流された。昭和天皇を連想させるようなこのギミックに対し浩子がWWE首脳部に抗議したことからギミックは変更になり、本名のケンゾー・スズキとしてリングに立つことになった。 鈴木浩子(ゲイシャガール・ヒロコ)。

また抗議した浩子もWWE首脳に注目され、結果 日本人初のディーヴァ「ゲイシャガール」として共にデビュー、活躍することとなった。

スマックダウンでは、フランス系カナダ人(ギミック上はフランス人)のレネ・デュプリとの異色タッグチームで活躍。また反米ギミックから親米ギミックに変わったり、トリー・ウィルソンに熱をあげて浩子とトリー・ウィルソンの対決ストーリーを演出したりもした。

2005年7月にロウに移籍するが、以前から健想サイドが要求していた年間120日の休暇+賃上げ交渉が決裂。ケガも負ってしまい、WWEを解雇された。
ハッスル

2005年にはハッスルと契約。同年11月3日にはハッスル・マニアにて試合を行い、日本マットに復帰した。「アメリカでホウキを相手にしてもプロレスがやれることを学んできた」の言葉通り、「和泉元彌の空中元彌チョップの前に敗北」をやってのけ、プロレス初経験となる非レスラーを相手に「プロレスの試合」を成立させた。その後、同年12月のハッスルハウスでは、AKIRA&ミスター鬼瓦、ライオセイザーライザーグレンと対戦するも、いずれも敗北。

2006年2月に藤井軍鶏侍相手にハッスルでの初白星を挙げた。3月シリーズでは川田利明に負けたことにより、モンスター軍入り。お笑いタレントのRGと対戦、2分ほどで勝利を収めるも、最終戦では、HG相手のタッグマッチで妻の浩子ともども下着姿にされた上に敗れるという屈辱的な姿を晒す。4月のハッスル16でも坂田亘を終始圧倒しながらリングサイドの浩子にエアプレーンスピンで回している坂田の足が当たり、呆然としている隙に丸め込まれ、浩子はサゲマン呼ばわりされてしまう。

WWE時代から続くウルティモ・ドラゴンとの関係からドラゴンドアにも登場。ドイツのローカル団体で試合を行い、メキシコのCMLLにも参戦するなど世界各地で活躍する。
メキシコ

ハッスルとの契約満了、メキシコCMLLに移籍。同時に日本のインディー団体の祭典「レッスルエクスポ2006」では、DDTプロレスリング高木三四郎との電流爆破マッチが決定する。元祖電流爆破大仁田厚への訪問、ユニオンプロレス、大日本プロレスなどのマットに参上。停電等のアクシデントもありながらも高木から勝利をとる。

2006年11月にはメキシコの英雄ミル・マスカラスの復活祭で、対戦相手に選ばれた。

2007年3月、CMLLからライバル団体であるAAAに移籍。7月15日に行われたAAA最大の興行であるトリプレマニアでは、日本人としては初めてメイン戦を務め、名実ともにメキシコのトップレスラーとして活躍。

2007年11月、DRAGON GATEマッスル・アウトローズの一員として短期間参戦。

2009年、日本のリングに縁のある、オリエンタルSUGIで「ラ・ヤクザ」を結成。

2010年、AAAと契約更改せず、日本へ帰国。
全日本プロレス

2010年7月25日、全日本プロレスVOODOO-MURDERS(以後VMと表記)の一員としてKENSOを名乗り乱入、欠場中で解説席に居た武藤敬司を流血に追いやった。


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