KANO
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KANO
1931海の向こうの甲子園
KANOストーリ館(嘉義市
監督馬志翔
脚本陳嘉蔚、魏徳聖、馬志翔
出演者永瀬正敏
大沢たかお
坂井真紀
伊川東吾
音楽佐藤直紀
撮影秦鼎昌
配給威視電影(中国語版)
ショウゲート
公開 2014年2月27日[1]
2014年3月27日
2015年1月24日[2]
上映時間180分
製作国 中華民国台湾
言語台湾語
日本語
客家語
アミ語
製作費2.5億台湾元
興行収入1.40億円[3]
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『KANO 1931海の向こうの甲子園』(カノウ いちきゅうさんいち うみのむこうのこうしえん - 原題『KANO』)は、2014年台湾映画。「かのう」とは、日本統治時代の台湾嘉義市に実在した、嘉義農林学校を日本語読みした当時の呼び名である。DVDやポスターではKANOのフリガナが「カノウ」ではなく「カノ」となっている。

2014年3月7日、第9回「大阪アジアン映画祭」オープニング作品として台湾以外で初上映され、「観客賞」を受賞した[4]。台湾制作であるが、舞台となった時代背景からセリフの多くは日本語であり、一部に台湾語、客家語、原住民語(アミ語)が使われている[5]。日本では2015年1月24日に公開された[2]
あらすじ

1944年(昭和19年)、錠者大尉ら大日本帝国陸軍の将校たちは、南方の戦場へ向かうために台湾の基隆駅から、台湾南部へ向かっていた。錠者は同行者に「嘉義に着いたら起こしてくれ」と言って、しばしの眠りにつく。

1931年(昭和6年)夏、甲子園球場で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会の開会式に、錠者は札幌商業のエースとして参加していた。日本本土の学校だけでなく、大連京城といった外地の学校のプラカードも見える。そこに交通事情から遅れて参加してきたのが、嘉義農林学校野球部(中国語版)の選手たちであった。

物語はさらに1929年に遡る。のんびりしたチームの「嘉農」野球部は連敗続きであったが、新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎によるスパルタ式訓練により、部員たちの心には徐々に闘争心と甲子園出場への夢が芽生えていった。近藤は日本人のみを贔屓することなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。また、かつて近藤が指導し、その指導に萎縮した松山商業と比べ、嘉農の選手たちが伸び伸びとプレーする姿は、近藤自身を成長させ、チームに対する愛情を深めていくのだった。

少年たちは日本語で教育を受け、普段は日本語を話したが、街や仲間内では台湾語を話した。日本の統治下にある街には日本語と漢語があふれ、近代化整備が進みつつあり活気に満ちていた。一方で、農村は治水対策が不十分で、台風のたびに甚大な被害を受けていた。

エースピッチャーの呉明捷(アキラ)は叔父が経営する山陽堂書店の手伝いをしており、店員である阿静に淡い想いを寄せていた。しかし阿静はやがて台中の医師と結婚して嘉義を去る。アキラは爆竹を燃やして彼女を祝福しつつ寂しげに見送るのだった。

全国中等学校優勝野球大会へ向けた台湾大会が始まった。当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場できるのは台湾全島で1校だけであったため、甲子園へ行くには台湾大会で優勝する必要があったが、従来は毎回日本人のみで構成された台北一中台北商業が出場していた。外国人は野球を含めたスポーツが下手だとされており、また外国人が混じっているチームは見下され、応援されなかったのである。こうした事情にもかかわらず、三民族で構成され、しかもこれまで「一度も勝ったことがない」チームであるはずの嘉農の快進撃は止まらず、勢いに乗って全島優勝を果たす。台北から凱旋した選手たちは町中から大歓迎を受けるが、彼らは当時のアジア最大の水利事業であった嘉南大?完成を知るや、パレードを中断して用水路へ向かった。水が満ちていることに感動していると、視察で用水路を下ってきた大?建設の指導者・八田與一に会い、優勝を報告するとともに、八田から激励を受ける。

迎えた甲子園大会、嘉農は下馬評では弱すぎて本土のチームには相手にならないのではと危惧されていた。甲子園球場に来た嘉農の選手たちは、「甲子園の土」の質の良さに感動する。初戦の対神奈川商工戦では、3-0の完封に抑え、一躍注目チームとなる。その様子をスタンドから見ていた錠者は、激しく動揺する。マスコミからの取材を受けた嘉農の選手たちには当初「なぜ外国人がいるのか」「野蛮な高砂族に日本語は理解できるのか」等といった差別的な眼差しと質問が向けられるが、日本人メンバーの小里は「自分達はよい友達だ」と返し、近藤も「彼らは民族を問わず同じ球児だ」と反論した。

準々決勝の対札幌商業戦は、19 - 7で圧勝。試合中、札商ピッチャーの錠者は茫然自失となり、自分でも何が起きたのか理解できないうちに自らマウンドを降りてしまう。

再び、1944年。錠者大尉は、嘉義駅での大砲の積載に時間がかかることを確認すると、嘉農の練習場へ向かった。あの時の彼らの強さの原点は、何だったのか。街には第二次世界大戦中の大日本帝国領として戦意を高揚させる垂れ幕があふれていたが、かつてのような活気はなかった。錠者は、荒れ果てた練習場のピッチャーマウンドに立つ。

甲子園大会準決勝の対小倉工業戦も、嘉農は10-2で圧勝。魂のこもった姿勢と素晴らしい強さは本土の野球ファンをも魅了し、応援するファンも増え決勝戦では超満員の観衆が甲子園に詰め掛ける。決勝の相手は名門中の名門、中京商業[6]。地元の嘉義では市民たちがラジオ中継に熱中し狂喜乱舞しており、阿静も出産したばかりの子供と共に嘉農を応援する。日本だけでなく台湾でも大勢のファンが固唾を呑んで見守る中、試合が始まる。しかし、アキラの指は限界を迎えていた。試合中に出血したアキラを近藤は降板させようとし、チームメイトの間でも激しい意見が交わされる。結果、アキラは続投することになるが、フォアボールを連発し、押し出しで得点が入ってしまう。そこに守備の選手たちが「俺たちが守るから敵に打たせろ」と叫び、ベンチの選手たちはアキラの応援歌を絶唱する。結局、彼らは中京商の吉田正男に完封に抑えられ、優勝はできなかった。しかし、嘉農の最後まで諦めない奮闘ぶりは日台それぞれの人々に強い印象を残し、スタンドにいた錠者は健闘を称えて「天下の嘉農」と絶叫する。その声はどんどん大きくなり、やがて観客席全体から響き渡るのだった。その中には、当初は嘉農の選手達に差別的な言葉を投げつけた新聞記者の姿もあった。負けても泣くな、勝っても泣くなと指導されてきた選手たちは、「僕たちはいつ泣いたら良いんですか?」と言い、ついに号泣する。

選手たちは準優勝盾と甲子園の土を手に、船で台湾への帰路についた。船上ではしゃぎながら野球をする選手たちの前に、やがて懐かしい台湾の地が近づいて来る。

エンドロールでは、近藤や選手たちのその後が紹介される。ある者は日本の野球界で活躍し、ある者は台湾で野球の普及に貢献した。そして、ある者は第二次世界大戦太平洋戦争)で戦死したのだった。
製作

嘉義農林の卒業生が古い資料や関係者への取材をもとに、甲子園に出場した野球部の話を一冊の本にまとめて母校に寄贈していたことをプロデューサー・魏徳聖が『セデック・バレ』製作中に知り、野球経験のある俳優・馬志翔を監督に映画化を決定。選手役には演技経験より野球経験を重視し、約5000人の中から身長が高く、5年以上の野球経験がある者が選ばれた[7][8][9]。選ばれた者は学校を休学し演技や言語などの訓練を受けた。甲子園球場のグラウンドを等倍で作り、黒土の再現はタイヤを細かくしたものを敷き詰めて再現した[10]
主要な登場人物
嘉義農林学校(嘉農)野球部
近藤兵太郎(こんどう ひょうたろう)
演 - 永瀬正敏嘉農野球部新任監督の内地人。愛媛県立松山商業学校を初の全国出場へと導いたのち、台湾へ赴き会計士となった。松山時代のいきさつから、嘉農野球部の監督就任依頼を受けても渋っていたが、練習風景を偶然見たのを機に、監督に就任する。


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