KAN
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、日本のシンガーソングライターについて説明しています。その他の用法については「KAN (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「木村和」はこの項目へ転送されています。「木村幹」とは別人です。

KAN
出生名木村 和[1]
生誕 (1962-09-24) 1962年9月24日
出身地 日本福岡県福岡市
死没 (2023-11-12) 2023年11月12日(61歳没)
学歴法政大学社会学部
ジャンルポップス[2]
職業.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・\a0 ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" |\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" -\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" /\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:")\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}

シンガーソングライター

作曲家

担当楽器

ボーカル

ピアノ

ギター

活動期間1987年 - 2023年
レーベル

ポリドール(1987年 - 1995年)

マーキュリー(1996年 - 1997年)

ワーナーミュージック(1997年 - 1999年)

BMGファンハウス(2000年 - 2001年)

zetima(2006年 - 2023年)

事務所ジェイピィールーム
( - 2022年)
アップフロントクリエイト
(2023年)
公式サイトKAN オフィシャルウェブサイト

KAN(かん、1962年昭和37年〉9月24日 - 2023年令和5年〉11月12日[3])は、日本シンガーソングライター。本名は木村 和(きむら かん)。アップフロントクリエイト所属。
生涯
生い立ち

福岡県福岡市に2人兄弟の次男として生まれる。1967年(昭和42年)、東田島カトリック幼稚園に入園。翌年に福岡市天神ヤマハ音楽教室に入室し、ピアノのレッスンを受ける。

1969年(昭和44年)、福岡市立田島小学校(現:笹丘小学校)に入学。福岡市唐人町のピアノ講師・中村順子に師事し、クラシックピアノを習い始める。講師宅で週1回のピアノレッスンに加え、毎週日曜日に田島バプテスト教会に通い賛美歌を歌う日々を過ごす。団地住まいにもかかわらず、ピアノを2台設置するなど、両親(特に母親)の音大進学への期待が高まっていた。

1972年、4年生のときに福岡市団地対抗少年野球連盟のチームに入団、1974年、6年生でレギュラーに昇格、副キャプテンを兼任した。また、校内唯一の長髪、赤いベルボトムジーンズ、オーバーオールを着こなすなど、ファッションリーダーとしても生徒間で注目を集め、福岡の老舗デパート「岩田屋」のランドセルのテレビCMおよび広告にモデルとして出演。
中学?高校時代

1975年(昭和50年)、福岡市立友泉中学校に入学。独学でギターを弾き始め、ビートルズをコピーする。1976年、中学2年生の秋に、高校受験を理由にクラシックピアノをやめる。

1977年、3年生の年にビートルズのコピーバンドを結成(バンド名はミートルズ)。この時に録音した音源はまだ残っており、大阪でのFM番組で放送されたこともある。KANとともにこの当時の番組に出演していたトータス松本はその音源を聴いて、中学生レベルとは思えない完成度・熱き思いに大きな衝撃と感銘を受けたという(その場ではKANに告げられずにいたが、10年程経過して再会した時にその時の感想を伝えた)。なお、2010年4月30日のNHKのFM番組(ジャパニーズ・ゴールデンポップス)において「いつか、ちゃんと(その音源を世に)出そうと思っている。」とKAN本人が発言している。

1978年(昭和53年)、福岡県立城南高等学校に入学。水泳部に所属。同級部員から借りたビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』に衝撃を受け、ピアノロックに目覚める(KANはこのLPを本来の所有者に返却するのを忘れ、29年間所持していた。後に返却)。
大学時代

1981年(昭和56年)、法政大学社会学部に入学。大学にはほとんど行かず、ピアノを買うために銀座のレストランや六本木のディスコ「玉椿」でのアルバイトに明け暮れる(そのため1982年、2年生の時に留年)。1983年福岡県立城南高等学校水泳部の先輩らが所属していたフュージョン系バンド「アネット」に、“自分のオリジナル曲をやること”を条件に加入@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}(このバンドで演奏した曲は、KANがデビュー以降に発表した作品の中にも存在する)。[要出典]

1984年にヤマハ「East West '84」決戦大会で優秀賞、集英社週刊ヤングジャンプ「Sound Contest '84」でヤングジャンプ奨励賞を受賞する。
デビュー

大学卒業後、1986年(昭和61年)にライトリンクスコーポレーション(1988年にアップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション)に吸収合併)と契約。同年、大林宣彦監督作品『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の音楽を担当(大林とは後に「大連・尾道友港都市博覧会」での上演作品、KANの2ndシングル「BRACKET」のMVでもコンビを組んでいる)。

1987年(昭和62年)4月25日ポリドールよりシングル「テレビの中に」および同名のアルバムでレコード・デビューした。デビュー後3年ほどは、大きなヒット曲もなく一般にはほとんど知名度はなかったが、わずか3年あまりの間にシングル7枚・アルバム4枚と、シンガーソングライターとして精力的に活動をしていた。
「愛は勝つ」が大ヒット

1990年平成2年)夏、5thアルバム『野球選手が夢だった。』の収録曲「愛は勝つ」が、テレビ朝日クイズおもしろTV』エンディング曲に採用された。しかし、同番組に使用されたことはあまり話題にならず、この時にはヒットに繋がらなかった。

しかし1991年1月フジテレビ系『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の第三期エンディングテーマに用いられ、「愛は勝つ」は大ヒットを遂げる。シングルは200万枚を超えるセールスとなり、オリコンチャートイン52週のロングヒットを記録するなど、90年代を代表する曲となった。

1991年(平成3年)、「愛は勝つ」が同年末の第33回日本レコード大賞(ポップス・ロック部門大賞)を受賞。また、第42回NHK紅白歌合戦にも出場。モーツァルト没後200周年の年であったこともあり、モーツァルトを連想させるかつら&扮装で熱唱)。

同年2月、やまだかつてないWinkに作曲提供した「さよならだけどさよならじゃない」(作詞・山田邦子)もヒット、卒業ソングの定番曲ともなった。同年、第29回ゴールデン・アロー賞音楽賞を受賞。

同年4月、彼が主題歌を務めるテレビドラマ「熱血!新入社員宣言」(TBS系)に出演し、俳優デビューも果たした。

同年9月6日、フジテレビ笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに初登場。KANを紹介したのは、前年に『雨にキッスの花束を』『新しい街で』を提供された今井美樹

1996年(平成8年)にはデビュー以来在籍したポリドールを離れ、レコードレーベルをマーキュリーに移籍。11月、中国広州の「広東国際広播音楽博覧会」に出演し、代表曲「愛は勝つ」を北京語中国語で歌唱。

1997年(平成9年)12月25日発表のシングル「ドラ・ドラ・ドライブ大作戦」より、レコードレーベルをワーナーに移籍。

1998年(平成10年)3月5日、ワーナー移籍後初となるアルバム「TIGERSONGWRITER」を発表。配信とサブスクでは、マーキュリーからリリースされた先行シングル「Songwriter/君を待つ」の2曲が収録されていないInternational Versionとして配信されている。

1999年(平成11年)4月、1997年のコンサートツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO DAL TREDICI SETTEMBRE PASSANDO IL MIO COMPLEANNO AL OTTO NOVEMBRE」で共演したバイオリニストの早稲田桜子と結婚[4][5]

2001年(平成13年)には、レコードレーベルをBMG JAPANへ移籍し、2枚のシングルと1枚のアルバムを発表した。
フランスの音楽院へ

2002年(平成14年)2月、「フランス人になりたい」の夢に近づくため、住居をフランスパリに移し、日本での音楽活動はその間休止した[6]。また、クラシックピアノを基礎から勉強し直すため、エコール・ノルマル・ドゥ・ミュジーク・ドゥ・パリのピアノ科(ノンプロフェッショネル)第2ディヴィジョンに中途入学した[6]

2004年(平成16年)6月に同科第3ディヴィジョンを修了して、翌月の7月20日に日本に帰国した[6]
帰国後

2005年(平成17年)、初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行。

2006年(平成18年)2月22日、4年5か月振りのシングル「カレーライス」を発表。同年5月、初の上海ライブを新天地ARKにて行う。同年8月30日に5年振りのアルバム『遥かなるまわり道の向こうで』を発表。

2007年(平成19年)5月12日に公開された映画「ラブデス LOVEDEATH」 (監督:北村龍平)に出演し、約16年ぶりに俳優業の仕事を行い、映画デビューを果たした。

2010年(平成22年)2月10日、シングル『よければ一緒に』を発表し、同年3月10日、アルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』を発表。このアルバムにて、尊敬するアーティストであるASKAとの初コラボレーション作品『予定どおりに偶然に (with ASKA) 』を発表。

2010年10月1日付で、所属事務所をアップフロントエージェンシーからジェイピールームへ移籍。同月27日、オリジナル・アルバムのうち廃盤となっていた『テレビの中に』から『KREMLINMAN』の12枚と、アルバム未収録曲集「Songs Out of Bounds」を「THE RESTORATION SERIES」と銘打ち、リマスタリングのうえ発売した。

2011年(平成23年)10月29日、KANが出演した2作目の映画「ステキな金縛り」 (監督:三谷幸喜)が公開。同年11月、ロシア・モスクワでのイベント【J-FEST 2011】Фестиваль японской современной культуры(日本の現代文化フェスティバル)に出演。

2016年(平成28年)2月3日、約6年ぶりのアルバム「6×9=53」を発表。同月17日には、同事務所所属のアイドル「こぶしファクトリー」がアルバム収録曲の「桜ナイトフィーバー」をカバー。
晩年?死去

2020年(令和2年)2月26日、桜ナイトフィーバー以来5年ぶりとなるシングル「ポップミュージック」を発表。この曲もまた、同事務所所属のアイドル「Juice=Juice」がカバーし、同年4月1日にシングルとして発表した。同年11月25日には約5年ぶりであり、生前最後のリリースとなったアルバム「23歳」を発表した。収録曲の「エキストラ」は翌年、譜久村聖によってカバーされ配信された。

2023年(令和5年)1月1日、所属事務所をジェイピィールームから、同じグループ企業であるアップフロントクリエイトへ移籍。3月18日、「メッケル憩室」と診断されたことを公表し、治療に専念するため4月から行われる予定だったツアーを中止することを明らかにした[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:141 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef