K.C.ジョーンズ
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K・C・ジョーンズ
K.C. Jones

故人
ポジションPG
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
生年月日1932年5月25日
没年月日 (2020-12-25) 2020年12月25日(88歳没)
出身地テキサス州テイラー
身長(現役時)185cm (6 ft 1 in)
体重(現役時)91kg (201 lb)
キャリア情報
出身サンフランシスコ大学
ドラフト1956年 13位
永久欠番セルティックス  25 
選手経歴
1958-1967ボストン・セルティックス
指導者経歴
1972-1973
1973-1976
1983-1988
1990-1992サンディエゴ・コンキスタドアーズ
キャピタル/ワシントン・ブレッツ
ボストン・セルティックス
シアトル・スーパーソニックス
受賞歴

選手時代

NBAチャンピオン:1959-1966

NCAAチャンピオン:1955, 1956

オールアメリカ2ndチーム:1956

No. 25 ボストン・セルティックス永久欠番

No. 4 サンフランシスコ大学永久欠番

コーチ時代

NBAチャンピオン:1984, 1986

Stats  Basketball-Reference.com
Stats  NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
代表歴
キャップ アメリカ合衆国 1956

獲得メダル

アメリカ合衆国
オリンピック
1956 メルボルンバスケットボール


K・C・ジョーンズ (K.C. Jones, 1932年5月25日 - 2020年12月25日) は、アメリカ合衆国の元バスケットボール選手、指導者。テキサス州テイラー出身。NCAAオリンピックNBAファイナルと当時のアメリカバスケ界の主要タイトルを全て制覇した。NBA随一の名門チームであるボストン・セルティックスの重要人物であり、1960年代の伝説的な8連覇時代の主要選手として8回、1980年代黄金期のヘッドコーチとして2回、計10回の優勝を同チームにもたらした。1989年には殿堂入りを果たし、背番号『25』はセルティックスの永久欠番となっている。名前の"K.C."は略称ではなく、これが本名である。
生い立ち

鉄道エンジニアの父、ケイシー・ジョーンズ(Casey Jones)の名をとって『K.C.』の名前を与えられたジョーンズは、貧しい幼少時代を過ごし、そして彼が9歳の頃に両親は離婚し、ジョーンズは母に着いてサンフランシスコに移住した。サンフランシスコの商業高校に通ったジョーンズはここでアメリカンフットボールとバスケットボールの選手として頭角を現し、奨学金を獲得してサンフランシスコ大学に進学。ここでジョーンズは生涯の盟友となる、そして当時はまだ無名だったビル・ラッセルと出会った。

ジョーンズとラッセルを擁したサンフランシスコ大学は1955年から1956年にかけて驚異の56連勝を記録し、NCAAトーナメントを連覇した(ただし、ジョーンズは出場資格期限切れにより、1956年のNCAAトーナメントには出場できなかった)。大学卒業後、ジョーンズとラッセルはメルボルン五輪アメリカ代表に選出され、金メダルを獲得した。
ジョーンズとラッセル

しばしばバスケットボール史上最高のディフェンダーと評されるラッセルと同様に、ジョーンズも優れたディフェンダーであり、特に1on1でのディフェンスやスティールの技術は高く評価された。2人とも決して優秀なスコアラーではなかったが、このコンビはカレッジバスケ界に旋風を巻き起こし、サンフランシスコ大学の成功はオフェンス偏重の時代にあった当時、ディフェンスの重要性を見直させるものとなった。

生涯の友好を結んだジョーンズとラッセルだが性格は正反対で、社交的なラッセルに対し、ジョーンズは内向的な性格であり、ラッセルの回顧ではジョーンズは最初の一ヶ月は一度も口を開かなかったという。
NBA入り前

ボストン・セルティックスのヘッドコーチ、レッド・アワーバックは1956年のNBAドラフトでビル・ラッセルを獲得すると共に、2巡目指名でジョーンズを指名するが、しかしジョーンズは兵役に就いたためすぐに入団はしなかった。このシーズン、セルティックスは初優勝を遂げている。

ジョーンズは1958年に除隊するが、セルティックスへの入団はまたもや先延ばしされた。ジョーンズは大学時代は殆どアメフトはプレイしていなかったが、NFLロサンゼルス・ラムズからドラフト指名を受け、幾つかのエキシビジョンゲームに参加した。しかしこの時足を故障し、ジョーンズはNFLでプレイすることを断念した。

その後ジョーンズはセルティックスのトレーニングキャンプに招かれ、ようやくセルティックスに入団した。
NBAキャリア

ボストン・セルティックスのバックコートにはボブ・クージービル・シャーマンという2人の偉大な選手が居たため、ジョーンズのルーキーイヤーは平均12.4分の出場で3.5得点の成績だった。セルティックスはこの年のファイナルも制覇し、そしていよいよ伝説的な八連覇時代へと突入する。

セルティックスが順調に優勝回数を増やしていく中、1961年にはシャーマンが、1963年にはクージーが引退するとようやくジョーンズは先発に昇格し、王朝のバックコートはK.C.ジョーンズとサム・ジョーンズ、2人のジョーンズに委ねられた。2人の偉大な選手の引退後もセルティックスのバックコート陣は弱体化せず、ディフェンスに優れたK.C.、オフェンスに優れたサムと、バランスのとれた陣容となり、さらに優勝回数を増やしていった。ジョーンズのキャリアハイは1960-61シーズンに記録した平均9.2得点と、成績そのものは決して派手なものではなく、そのためオールスターや個人賞とは無縁だったが、彼のディフェンスはセルティックスにとっては欠かせない武器となり、またオフェンス面でもチームメイトにパスを供給する優秀な司令塔として活躍し、1964-65シーズンに記録した平均6.3アシストはリーグ3位に入った。特にディフェンスでの貢献は顕著で、当時のオスカー・ロバートソンジェリー・ウェストなど、その時代を代表するスコアラーたちが彼のディフェンスに苦しめられた。もし当時オールディフェンシブチームがあったならば、彼は確実に常連だっただろうと言われている。

1966年にセルティックスは9回目の優勝を果たし、八連覇を達成。ジョーンズも自身の優勝回数を8に伸ばした。34歳となっていたジョーンズはこのシーズンを最後に、現役から引退した。ジョーンズの引退と同時にアワーバックもヘッドコーチから退き、セルティックスの連覇記録はここで途切れることになる。

NBA通算記録は9シーズン676試合の出場で、5,011得点2,908アシスト、平均7.4得点4.3アシストだった。
コーチキャリア

現役から引退したジョーンズは1967年から1970年までをボストン近郊のブランダイス大学のヘッドコーチとして過ごして後、現役時代の宿敵ロサンゼルス・レイカーズでヘッドコーチを務めるビル・シャーマンの招きにより、アシスタントコーチとしてNBAに戻った。レイカーズは1971-72シーズンに驚異の33連勝を記録し、悲願の優勝を果たしている。

レイカーズを退団したジョーンズはNBAのライバルリーグ、ABAサンディエゴ・コンキスタドアーズのヘッドコーチに就任。


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