K-19_(原子力潜水艦)
[Wikipedia|▼Menu]

К-19
1972年2月29日撮影
基本情報
建造所セヴマシュ
運用者 ソビエト連邦海軍
艦種弾道ミサイル潜水艦(潜水巡洋艦
級名658型原子力戦略任務ロケット潜水巡洋艦(ホテルI型)
愛称ヒロシマ
母港ポリャールヌイ海軍基地
艦歴
起工1958年10月17日
進水1959年4月8日
竣工1960年11月12日
就役1961年4月30日
退役1990年4月19日
改名KS-19(1979年)
BS-19(1990年)
要目
排水量4,030トン
水中排水量5,000トン
全長114 m
高さ9.2m
吃水7.1m
機関

70MW VM-A 加圧水型原子炉2基
60-DM減速型蒸気タービン2基2軸
速力

水上15ノット (28km/h)
水中26ノット (48km/h)
潜航深度250m(試験結果)
300m(理論値)
乗員125名
兵装

R-13 (4K50、SS-N-4 Sark) 潜水艦発射弾道ミサイル x3
533 mm (21インチ) 魚雷発射管 x4
406 mm (16インチ) 魚雷発射管 x2
テンプレートを表示

K-19(:К-19 カー・ジヴャトナーツァチ)は、ソビエト連邦海軍658型潜水艦の1番艦。ソ連初の潜水艦発射弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(戦略ミサイル原子力潜水艦)である[1][2]NATOコードネームはホテルI型。本艦は晩年期に改名されているが、便宜上K-19と表記する。

建造中に複数の死者を出したうえ、就役後に深刻な事故を多数引き起こしているいわくつきの潜水艦で、後述の原子力事故によって「ヒロシマ」という渾名が付けられた。
来歴
就役まで

K-19は1958年10月17日にセヴェロドヴィンスクセヴマシュ造船所で建造が始まり、1959年4月8日に進水する[1]。建造中、火災で2名の作業員が死亡したほか、貯水タンクに防水ゴムを貼っていた女性作業員6名がガス中毒で死亡。また、ミサイルの積載作業中に電気技師が発射筒カバーに接触し死亡したうえ、技術者が船室の間に転落して死亡している[3]。1950年代後半、ソ連海軍は原子力潜水艦隊の整備を急いでいた。このため工期も短縮され、技術面の未熟さに起因するトラブルが絶えず、海軍士官たちはK-19が実任務に耐えられないのではと感じていた。

伝統的にロシアの船舶は女性によって洗礼を施される慣例になっていたが、K-19に限っては男性のV・V・パノフ少佐が行った。洗礼の当日、艦首にぶつけられたシャンパンの瓶は割れることなく跳ね返り、船体の上を転がっていった。このことは不吉な前兆として乗組員に受け取られた[3]

1960年1月、当直中の乗組員のミスにより原子炉制御棒が曲がってしまい、修理のために原子炉を分解する必要があった。 当直士官は解任され、パノフ少佐は降格となった。1960年7月13日から17日まで海上公試を行ったのち、8月12日から11月8日まで再度試験を受け、17,347kmを航行したが、全速水中航行から浮上すると船体の防音ゴムタイルの大部分は剥がれてしまったという。また、最大深度300mまでの潜航試験中、原子炉区画で浸水が起こり、浮上したものの艦が左舷側に傾いたままになってしまう。これは建造中に作業員がガスケットの交換を怠ったことが原因だった。さらに、10月に給養員が木箱の破片を厨房生ゴミ処理装置に投入して詰まらせたことによって一部区画で浸水が発生した。12月には循環ポンプの故障により冷却材漏れを起こし、セヴェロドヴィンスクから派遣された技術者が洋上で1週間かけて修理を行った。

これら多くの不運とトラブルを経験したのち、K-19は1961年4月30日に就役し、34歳のニコライ・V・ザテエフ大佐が初代艦長に就任した。
原子炉事故(1961年)

北極圏軍事演習に参加したのち、グリーンランド付近の北大西洋上を航行中のK-19は、アイスクリームと特別配給のワインでザテエフ艦長の誕生日を祝っていた。その4日後の1961年7月4日4時15分、K-19は原子炉一次冷却循環系のトラブルを起こし、冷却材漏れ事故を起こした。2時間後、浮上して通信を試みたが、幾つかの故障が重なって長波無線システムが使用不能になり、同艦は司令部の指示を仰ぐことはおろか救援の要請もできなかった[4]

漏出は一次冷却循環系内の圧力を調整するパイプで起こっていることが突き止められ[5]、炉内圧力の低下により原子炉スクラム(緊急停止機能)を作動させ制御棒が挿入されたが、核分裂生成物の崩壊熱によって炉心温度は800℃まで上昇してしまう。ザテエフ艦長は原子炉の暴走が核爆発を引き起こすと誤解しており、この核爆発をソ連側の攻撃と認識したアメリカが核兵器による報復を行うと考えていた[6]。同日6時30分、ザテエフ艦長は冷却装置の修理のために艦内の排気弁を切断し、原子炉に冷却材を供給するパイプとして溶接するよう命じ、修理班が高線量の原子炉区画で長時間作業をすることになる。8時45分、結果として修理は成功し、冷却水システムは原子炉内の温度を下げることに成功した。しかし、戻ってきた修理要員たちの顔は恐ろしいほど紅潮して浮腫み、よろめきながら嘔吐を繰り返していた[7]

ザテエフ艦長は乗組員の反乱を警戒して、最も信頼できる部下に5丁の拳銃を配布し、それ以外の小火器は全て海中に投じるように命じた。なお、このときの副艦長は、1年後のキューバ危機のさなか、ソ連潜水艦B-59に同乗し、核ミサイルの引き金を引くかどうかの判断を迫られた3人の責任者のうち、唯一反対したヴァシーリイ・アルヒーポフである。また、ザテエフ艦長は乗組員一人あたり100mLほどの飲酒を許可している。艦長はアルコールが放射線障害に有効だと信じているようだった[8][9]

ザテエフ艦長は友軍潜水艦がアイスランド近海で活動していることを知っていたので、北東へ1週間かけてポリャールヌイの母港を目指すのではなく、南下して友軍との遭遇を試みるという賭けに出た。部下2名は北上しノルウェーヤンマイエン島付近で艦を放棄して脱出することを提案したが、艦長はこれを却下した[8]。同日午後、K-19は低下した伝動装置の音をソ連海軍の613型潜水艦S-270によって捕捉されてランデブーが可能となり、重症の原子炉修理班をはじめとする乗組員が収容された。17時頃には応援の潜水艦S-159が、数時間後にはS-268も到着し、翌日未明には艦長ら残っていた乗組員が退避した。これら613型潜水艦に対してK-19はあまりに大きく(排水量比較で4倍弱)、曳航用のロープは切れてしまったが、後に到着したサルベージ船アルダンによってコラ湾の母港に曳航された。破損した動力装置を除去して交換するために、2年の月日を費やさねばならなかった。

事故の原因は、同艦の建造期間中の初期の段階においてなされた修理で、右舷の原子炉の主要冷却回路の中に溶接棒の破片が落ちたためであった。改修を受けたK-19は、新型弾道ミサイルR-21(英語版)(4К55 / SS-N-5 SarkまたはSerb)の発射試験などを経て1964年に艦隊に戻ることになった。モスクワ・クズミンスコエ墓地(ロシア語版)の慰霊碑

氏名階級(役職)死亡日生存日数
ボリス・コルチロフ(英語版)中尉(原子炉技術士官)1961年7月10日6日
ユーリ・オルドチキン一等兵曹1961年7月10日6日
エフゲニー・カシェンコフ二等兵曹1961年7月10日6日
ニコライ・サフキン水兵1961年7月13日9日
ヴァレリー・ハリトノフ水兵1961年7月15日11日
セミョーン・ペンコフ水兵1961年7月18日14日
ユーリ・ポフスチェフ少佐(機関長)1961年7月22日18日
ボリス・リジコフ上級兵曹1961年7月25日21日

乗組員は高線量の放射線被曝を受け、イワン・クラコフ[10]を除く原子炉修理班の上記8名は、ヒトの致死量の10倍以上にも達する線量(約45?60シーベルト)による急性放射線症候群で3週間以内に死亡した。1994年のロサンゼルス・タイムズによると、被曝者は仲間に殺してくれるよう懇願したという[11]。このほかにも14人の乗組員たちが2年以内に死亡し、生存した乗組員も放射線障害と診断された。しかし、これらの患者は秘密保持の観点から放射線障害ではなく「自律神経失調症」として扱われた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef