JanJanサタデー
松本典子、松坂慶子、山田洋次、松山千春、麻見和也、小林千絵、新田純一、河上幸恵、泰葉、西口久美子、ピンボール、ネバーランド、柴田恭兵、仲村トオル、佐野量子(番組最多ゲスト出演)、光GENJI、早見優、中森明菜、チェッカーズ、とんねるず、コロッケ、コント赤信号、竹中直人、アゴ&キンゾー、マギー司郎、森口博子、井森美幸、島田奈美、芳本美代子、中村由真、久保田利伸、森川美穂、山瀬まみ、山岸もえ、仁藤優子、伊藤智恵理、キャディラック、ザ・シャムロック、C-C-B、増田恵子、セブンティーンクラブ、大島渚、武田鉄矢、HOUND DOG、CHA-CHA、秋本理央、仲村知夏、吉沢京子、勇直子、増田未亜、結城めぐみ、細川直美、藤谷美紀、本田恭章、ラフィンノーズ、シティボーイズ、ケッタウェイズ、松尾伴内、ガダルカナル・タカ、織田裕二、松原みき、伊藤美紀、本田理沙、相川恵里、新島弥生、B21スペシャル、田中律子、菊池桃子、矢野有実、森高千里、TM NETWORK、電気グルーヴ、X(X JAPAN)、笠原弘子、深津絵里、中山忍、すかんち、嘉門達夫 、タモリ、TUBE、五木寛之、渡瀬マキ、今井美樹、川島なお美、所ジョージ、明石家さんま(電話での出演)、陣内孝則、児島未散、レベッカ、BAKUFU-SLUMP、JITTERIN'JINN、吉幾三、永六輔、時任三郎、丹波哲郎、コント・レオナルド、里中茶美、早坂好恵、川越美和、かとうれいこ、KATZE、Winkほか多数
コーナー(順不同)
JanJan金曜日時代
「若きリーダー」
「若者はいま」
「今週のミスJanJan」
「今週の新人歌手」
「JanJan伝言板」
「三上寛のハッピーデート」
「ミスターKのコーナー」
JanJanサタデー時代
「Janサタトップ10」
「Janサタビデオトップ10」
「Janサタスクリーンガイド」
「ゆめの変身トップギャル」(このコーナーに応募した山岸もえがその後歌手デビューする)
「せのおたくまのCITYBOX SHOW」
「ミスターKのプラモアミーゴ」
「CANCANリポート」
「小森まなみのまみのメモ」
「マミの各駅停車」
「マリオ中村のスーパー裏ワザ英会話」
「井森美幸のイモのメモ」(小森まなみの代打出演時に1回のみ放送)
「大森うたえもんのギャグもまた真なり」
「お笑い学院」
「パーソンズグッズプレゼント」
「テレホンプレゼント」
「今週のBEST5」
「クイズ 当たってピンポン」
番組関連雑記
開始当初、若年層(高校生?大学生)および20代の若者を主なターゲットとしてスタートし、硬派な部分もウリのひとつだったこの番組はその後、司会者陣が変わるたびにターゲットとなる視聴者層が低年齢化していき、「おとな」の世代からは徐々に距離を置かれていく番組になっていった。番組末期の西尾拓美・松原桃太郎コンビの時には既に番組スタート当初の硬派な雰囲気はなく、中高生に目線を合わせた番組内容となっていた。司会を務めていた三上寛が降板した理由も、番組自体の視聴者層が低年齢化して行くにつれ、自分の考える番組の方向性と徐々に乖離して行ってしまったことを理由として述べていた。
番組初期の出演者であったミスターKは、当時静岡第一テレビアナウンサーの北嶋興であった。ミスターKとして出演する際はサングラスとベースボールキャップを着用した出で立ちで出演していた。また『JanJan金曜日』の頃、静岡伊勢丹前から毎週月光仮面の扮装で出演していたが、この月光仮面の衣装は毎週その都度、日本テレビから借りていたそうである。
静岡放送(SBS)の國本良博アナウンサー(当時)とミスターK(北嶋興)は他局ながらも知り合いで仲が良かったことから、北嶋がSBSラジオで当時放送されていた『フリーステーション1.2.0』(國本担当の金曜)にゲスト出演したことがある。そのお返しということではないかもしれないが、SBS社員有志で結成されたバンド「ケッタウェイズ」がゲストとして出演し、バンドの紹介とコンサート告知を行った事がある。当時の情勢を考えると、他社社員のバンドを紹介したり、コンサートの告知までやることは非常に画期的であったと言える。
JR静岡駅北口の駅ビル「パルシェ」が開業したのが1981年10月。番組開始当初はまだ駅ビルの建物自体が建設工事の最中であったが、建物が完成し、パルシェ開業が近づくと、運営会社である「静岡ターミナル開発」は、パルシェ開業を告知するテレビCM(イメージキャラクターに起用した手塚理美が出演)を集中的に流し始めた。特にSDTで多く流され、開業後もミニ番組(金曜22:54)の提供になるなどSDTとの関係は深かった。Janサタがパルシェ5階に当時あった「コミュニティホール」から月1回の公開生放送を開始するにあたっては、このあたりの「付き合い」も影響していたと考えられる。
番組が毎月1回、静岡駅ビルから生中継する以外にも、県内各地から生中継をすることも多かった。その中継のやり方には、全編中継というケースもあれば、本社Aスタジオ(当時SDTにはスタジオが1つしかなかった)と現場との2元中継というケースもあった。しかしながら当時SDTは大型中継車の機材をAスタジオの機材と共用しており、中継する際はAスタジオの機材を中継車に載せ替えて使用するスタイル(俗に「中継車ドライブ」と呼ぶ)を取っていたため、全中継ならともかく、2元中継の際はスタジオ・現場ともにカメラやマイクなど放送の根幹に関わる機材の融通に苦労したという(ただ報道用中継車に限っては一通りの機材が揃っていたため、小規模中継では報道用中継車を使用したそうである)。しかし1987年頃、大型中継車が更新され、中継車内に専用機材が常備(常設)されたため、スタジオと現場で機材の使い分けができるようになり、中継での制約がなくなったとされる。
番組を放送していたのは「Aスタジオ」であったが、番組内においては「J(Janサタの番組名にかけて)スタジオ」と呼ばれていた。
2009年に放映された静岡第一テレビ開局30周年記念特別番組内でJanJanサタデーが取り上げられた際、司会者だった三上寛がVTR出演、番組当時の思い出などを語っている。自身が語ったコメントによると、司会者起用のオファーが来た際は「アングラなフォークシンガーである自分に若者向けの番組の司会者が果たして務まるのだろうか」と大きな不安を抱えていたという。しかし思い切って番組司会者としてのオファーを受諾した所、三上の豪放磊落でユーモアとウィットに富んだトークが視聴者を掴み、「三上寛のJanJan金曜日」から番組降板に至るまでの約6年間に亘り、同番組の司会者を務めて行くこととなる。番組降板時には視聴者から降板を惜しむ声が多数寄せられていた。三上は「今でもJanサタを見ていたという方から声を掛けられるのが凄く嬉しい」「司会者として参加できて本当に良かった」と述懐している。
参考文献
静岡第一テレビ社史編纂室『静岡第一テレビ十年史』静岡第一テレビ、1991年。
脚注^ 「静岡第一テレビ十年史」などから一部引用・要約
^ 情報センターとJスタジオ(報道スタジオ)の紹介が中心。
次ページ記事の検索おまかせリスト▼オプションを表示暇つぶしWikipedia
Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef