JWP女子プロレス
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株式会社JWPプロデュース
JWP Produce Co., Ltd.
種類株式会社
略称JWP
本社所在地 日本
121-0002
東京都足立区中川3-14-9
業種サービス業
事業内容プロレス興行
関連企画の運営
代表者代表取締役 篠崎清
主要子会社JWPスポーツ教室
関係する人物山本雅俊(創業者)
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JWP女子プロレス(ジェイ・ダブリュー・ピー・じょしプロレス)は、かつて存在した日本女子プロレス団体。キャッチフレーズは「ピュアハート・ピュアレスリング」。
特徴
リングネーム

1999年2月、ジュニア選手を中心にリングネームの一斉改名を実施。改名した選手とリングネームは以下の通りである。

久住智子→日向あずみ

天野理恵子→カルロス天野

本谷香名子→美咲華菜

宮口知子→輝優優

倉垣靖子→倉垣翼(一時退団時に倉垣ツバサに改名して復帰後に倉垣翼に戻す)

渡辺えりか→橋本真弥(再デビュー後、渡辺えりかに戻す)

佐井富子→アキュート冴

道場マッチ

2003年六木の道場で月1回開催している。道場マッチではエンターテイメント性を高めたユニークなルールの試合が行われている。後述の2カウントフォールマッチを始め以下のルールの試合が組まれている。

場外転落後は用意された食べ物(おにぎり、かき氷など)を完食しないとリングに戻れないタッグマッチ。

もしもリングに水たまりがあったら(マット上に擬似水溜りを置き、そこに体が付いたら負け)。

丁寧語マッチ(試合中に丁寧語を使わなかったら、その場でハリセンによる、お仕置きを受ける)。

コスプレマッチ。

六木マリーナプールサイドマッチ山本雅俊体制で行われた逗子マリーナ大会を再現)(海はビニールプールで代用)(当初は「真夏のプチ逗子マリーナ」だった)。

道場マッチはJ:COM足立の番組「あだちコミュニティーチャンネル」で中継したり足立区民向けに入場料を割引するなど地域に密着した興行を謳っている。
JWPスポーツ教室

2006年、JWP女子プロレス道場を開放する形で開校したプロレス教室。

前年夏の体験練習に参加した中学生がきっかけとなりコマンド・ボリショイが考案して年明けに開講へ至った[1]

現在は健康増進を主とする原則月1回の「スポーツ教室」と選手育成を主とする原則週1回の「プロコース」が開かれている。いずれも所属選手及び引退後、スタッフに転じた日向あずみが指導に当たっている。

出身第1号レスラーは大木アスカ、前出の中学生は第2号レスラーのピンキー真由香

通常は道場で行われているが出張プロレス教室も実施されている。

スポーツ教室出身者も女子プロレスラーになるためには規定のオーディション及びプロテストを経る必要があるが、それまでに必要不可欠とされる受け身及び基礎体力を身につけることができるため早いデビューも可能となり中学生のうちに受講して中学校卒業後にデビューした選手も存在する。
歴史
旗揚げまでの経緯

1992年1月28日ジャパン女子プロレス解散後に同団体の子会社「JWPプロジェクト」を母体に設立。選手会の分裂により最終所属12選手のうちJWPに加わったのは7選手で、それにジャパン女子最終興行で一旦引退を表明したデビル雅美も加わった。さらに旗揚げ前に第1回「オーディション」を行って合格者の中から桑原三佳と小林美津恵が旗揚げメンバーになった。ジャパン女子でリングアナウンサーだった山本雅俊と同じく広報だった篠崎清の共同代表と言う形を採っていた。事務所は上野、道場は三郷に設置。
旗揚げ - 全盛期

1992年4月3日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。

フォールカウントを通常の3から2に変更した「2カウントフォールマッチ」やサブミッションによるギブアップのみで勝敗を決する「オンリーギブアップマッチ」、ストリートファイトルールを擬した「ドレスアップワイルドファイト」などの実験的な試合形式を行ったこともある。

1992年以降、いわゆる「団体対抗戦ブーム」においては全日本女子プロレスとの間で互いの看板タイトルの争奪戦を繰り広げた。1993年4月11日にはダイナマイト関西&尾崎魔弓組が全日本女子のWWWA世界タッグ王座12月6日にはキャンディー奥津が全日本女子の全日本ジュニア王座1994年3月24日には全日本女子の下田美馬&三田英津子組がJWPタッグ王座を奪取。そして1995年8月30日には関西が全日本女子のアジャ・コングを破ってWWWA世界シングル王座に就いている。

ジャパン女子解散後の選手会分裂によってJWPに加わらなかった選手たちから成るLLPW(現:LLPW-X)とは長く対立関係にあり1992年以降のいわゆる「団体対抗戦ブーム」においてもLLPWとの対抗戦は行われなかった。
衰退 - 一時活動停止

最盛期は全日本女子に匹敵するほどの人気を博したが1997年8月15日アステールプラザで行われたタッグマッチでプラム麻里子が死亡するリング禍が起こった。その後、人気選手の退団が短期間に起きたため急速にファンの支持を失っていった(両国国技館等での大規模会場での興行を頻繁に行ったことで「運営が苦しいインディーだからこそ応援しよう」といった古くからのファンが離れていったことも理由に挙げられる)。12月5日川崎市体育館でLLPWとの「交流戦」で「雪解け」を果たす。

1999年、それまで幾度か使用していた東天紅を常打ち化して「JWPホール」と名づけて興行を開催。

2000年2月、全日本女子と業務提携を結んだことを発表。全日本女子公認タイトルマッチのみならずジャパングランプリ公式戦をJWP興行内で行うなどした。8月、キックボクシングジム「アクティブJ」と業務提携を結んで同ジムから試合提供を受けていた。11月26日ディファ有明大会をもって一時活動停止。
活動再開

2001年1月、代表の山本雅俊が退任するなど経営陣が変わり2月18日、ディファ有明大会より活動再開。以降は東京キネマ倶楽部を始めとする小規模会場を中心に堅実な興行活動を継続している。

2002年六木に事務所兼道場を建てて移転。

2003年コマンド・ボリショイ筆頭たる選手会主導の運営に転換。

2010年10月5日本郷にJWPメディア本部を兼ねた「LIVE&Bar ふらっとんTIMES」がオープン。

2011年1月、全日本女子が行っていた「タッグリーグ・ザ・ベスト」と同名の大会を復活させることになった。

2014年3月20日、キャリア5年未満のジュニア選手を中心とした興行「青春・無限大パワー」をレッスル武闘館で開催。

2016年11月5日亀有最寄に移転することを発表[2]。名称は亀アリーナ。

2017年1月、運営会社がボリショイが代表取締役社長を務めるPURE DREAMに変更。
活動停止

2月8日、ボリショイ、KAZUKILeon中森華子勝愛実ライディーン鋼藤ヶ崎矢子が記者会見を行って運営会社だったJWPプロデュースとの契約が4月いっぱいで終了して諸事情により更新することができないため独立して新たな女子プロレス団体を設立することを発表[3]

3月28日、新団体名がPURE-J女子プロレスになったことを発表[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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