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開発元東京芝浦電気
種別日本語ワードプロセッサ
発売日1979年2月
標準価格630万円
CPU約0.2MIPS
JW-10(ジェイダブリュー・テン)は、1978年(昭和53年)9月26日に日本で東京芝浦電気(以下、東芝)が発表し、翌年2月に出荷開始した世界初の日本語ワードプロセッサである[1]。「TOSWORD JW-10」という表記がなされることもあるが[2]、JW-10の段階ではまだ「TOSWORD」の愛称をもたなかった。東芝製の業務用ワープロに「TOSWORD」の愛称が冠せられたのは後年である[3]。
概要[ソースを編集]
価格は630万円、重さは220kg[4]。片袖机ほどの大きさの筐体に、キーボード、ブラウン管、10MBのハードディスク、8インチフロッピーディスクドライブ、プリンターが収められている[5]。開発当初は普及を疑問視する声もあったが[6]、JW-10の開発によって培われたかな漢字変換の技術は、日本語入力システムの全てにおいて当然のように使用されるようになり[7]、東南アジアの諸言語のワードプロセッサの開発にも応用されている[8]。第6回データショウにてJW-10が発表された9月26日は、日本記念日協会より「ワープロの日」として制定されていた[9][10][11]。
開発[ソースを編集]
1971年、東芝・総合研究所の森健一は通商産業省の機械翻訳プロジェクトでコンピュータによる言語処理に携わっていた。コンピュータに日本語の文を英語へ翻訳させるにあたって、まず日本語の文法を解析する必要があった。なるべく多くの例文を手に入れるため、森たちは多くの文献を持つ新聞社や役所に出向いた。彼らはそこで自動翻訳装置よりも日本語の文書作成装置に需要があることに気付いた[12]。
森は新聞記者と雑談する中で「欧米の新聞記者に比べて、日本の記者は記事を書くのが遅い」ことが話題になった。これをきっかけに、紙より速く書けて、内容を遠隔に伝送でき、かつ将来的に携帯型にできるような日本語ワードプロセッサを作ろうと思い立った[13][14]。
日本語ワードプロセッサの最大の問題は、漢字の入力方法だった。すでに1915年には、杉本京太が邦文タイプライターを開発していた。しかしこのタイプライターの入力方式は、広い板の上に一つ一つ配置された漢字を選択するというものであり、使いこなすには大変な熟練を必要とした。また、その入力速度は腕を動かす速さに制限され、手で書くより速くならないことが分かった。漢字の偏と読みを指定し、出てきた同音の漢字から目的の字を選択する「音訓方式」も考案されたが、これも入力速度が遅いため採用されなかった[15]。
1970年代の日本語ワードプロセッサの研究開発は、森の所属していた東芝のほか、沖電気、NEC、シャープなど各社でも行われていた。この頃に主流となった研究モデルは、かな漢字変換ではなく、連想式と呼ばれる方式であった。この方式はかな文字を2つ入力すると漢字に直接変換する方法で、変換に特殊な処理を必要としない。そのためワードプロセッサの漢字入力方法として最有力視されていた。しかしこの方式では、変換できる漢字の数がキーボードの組合せの数までしか割り当てることしかできない。また、一つの漢字に対する変換方式をいちいち覚えていかなければならないため、修得するには大変な努力が必要となる等の欠点がある。
森は「誰でも」入力できることを念頭において、あえて主流である連想式ではなく、かな漢字変換方式を採用した。しかしながら当時、かな漢字変換の研究は一部の学者のみが行っているという程度であり、参考となる資料もほとんどなかった。当時の九州大学工学部の教授である栗原俊彦はこの研究を行っていたが、彼は沖電気と共同でこの研究を行っており、森が協力を得ることはできなかった。そこで、森は九州大学工学部出身の新入社員である河田勉を、当時京都大学助教授だった長尾真のもとへ1年間国内留学(研究生)させた。長尾はコンピュータによる日本語の構文解析の研究を行っており、河田にはそこで形態素解析の研究を行なわせた。また森自身も、かな変換用の辞書を造るために日本語の文法を徹底的に勉強し、計量国語学会にまで入った[8]。このとき河田は、京都大学で文字認識の研究をしていた大学院生の天野真家と出会う。天野は河田から東芝にくるように誘いを受け、研究メンバーの一人として迎えられた。
このようにして研究メンバーが増えたが、研究はしばらくの間、アンダー・ザ・テーブル(正式な研究になるまでの探索過程の非公式な研究)で行われた。最初の頃は森が全体の管理を行い、河田が形態素解析のプログラムを開発し、天野がそれを用いて意味・文法解析アルゴリズム全体の設計を行っていた。しかし文法論が充実するにつれ、だんだんと2人でのプログラミングでは足りなくなってきた。そこで森の紹介により、新たな研究メンバーとしてプログラマーの武田公人が加わり、主に固有名詞の処理プログラムを担当した[16]。
森は辞書の開発にあたって数冊の国語辞典から一般名詞を抽出した。しかし、実際に文章を作成するにあたって国語辞典に載っていない単語が続出することが判明した。これらを探すにあたって、高校の教科書、和英辞典、事務文書規範、用語用例集、同音異義語辞典を参考に、頻出する単語を抽出した。人名については森の知り合いの保険会社に協力を要請し、契約者のデータから姓と名をそれぞれ上位3000件ずつ抽出した情報を入手した。最終的には8万語を選び、読みに対応する熟語や文法の情報を専門のオペレーターがパンチカードでコンピュータに入力した[17]。漢字フォントの製作は専門のデザイナーに依頼。1週間につくれる字形は100字程度ということもあって、辞書とフォントの開発に3年以上を費やした[12]。
プリンタは東芝に漢字を印刷できる高性能なものがなかったため、東芝タンガロイに印字ピンの製作から依頼した[12]。
1976年3月、かな漢字変換プログラムと単語辞書が形になったため、研究チームは大型コンピュータにて漢字変換の精度や必要な校正機能を調査するシミュレーション実験を行った。この作業は、キーボードでのローマ字入力をそのまま紙テープに出力した後、計算機室のコンピュータに紙テープでデータを入力し、処理結果が収められた磁気テープを研究室に持ち帰って漢字プリンタで印刷するという、バッチ処理によるものであった[18]。
1976年4月、かな漢字変換の有効性に対してある程度の妥当性がでてきたところで、研究チームは「日本語処理の研究」に関する研究企画書を提出。研究所の正式な研究テーマになり、チームを3人から10人に増員して本格的な研究が始まった。バッチ処理では実験から結果を得るまでのサイクルに時間が掛かるため、まずミニコンピュータを使った日本語ワードプロセッサの試作機を製作し、1977年3月に完成させた。これによって、キーボード、ディスプレイ、プリンタを部屋内の一つのシステムに収めることができた[18]。
1977年11月より、全社をかけて商用化に向けた本格的な開発が始まった。JW-10の回路設計と製造はコンピュータ事業を手がけていた青梅工場が担当することになった[12]。青梅工場電算機設計部の技術者によって、キーボードやディスプレイの動作確認を行うためのハードウェアが作成された。情報システム研究所と協力し、このハードウェア上でJW-10のオペレーティングシステムや、かな漢字変換の一部、エディタなどほぼ全ソフトウェアが開発された。