JUNE_(雑誌)
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こうした映画情報のほか、文学紹介や絵画紹介は特に初期の『JUNE』によく見られた[17]。このほか、「junetopia」という読者投稿コーナーが存在した。「junetopia」では自らの同人サークルの紹介や「ヒワイ画コンテスト」「美形ギャラリー」と名付けられたイラスト投稿コーナーが設けられた[26]。また、『JUNE』には広告がほとんど掲載されていなかった[27]

『JUNE』に掲載された作品の多くは少年同士の恋愛を描いていたが、両性具有や少女同士の作品も掲載されていた[3][注釈 5]。竹宮によると、男女の話であっても『JUNE』らしさが描かれていれば掲載するという了解が佐川との間に出来ていたという[29]。中島梓によると、初期の『JUNE』ではサディズムマゾヒズムの組み合わせが顕著であり[30]、その後もネクロフィリア近親相姦が高い頻度で見られたほか、カニバリズムもまれに見られたが、スカトロジー肥満嗜好は決して見られなかった[31]

『JUNE』に掲載された作品は「耽美的でシリアス」と評される[32]。初期の『JUNE』では無理心中や交通事故、不慮の死や永遠の離別といったバッドエンドとされるものが多かった[33]。石田仁の調査によると、『Comic Jun』の創刊号に掲載された11作品のうち10作品がこのようなバッドエンドに分類された[34]。こうしたことから、『JUNE』の休刊後もシリアスなボーイズラブ作品が「JUNE系」と呼ばれることがある[32]。ただし、休刊が近づくにつれて相思相愛の確認や共同生活の始まりといったグッドエンディングとされる作品が増加していた[18][注釈 6]
作家

『JUNE』に投稿した作家は24年組を中心とした漫画家やコミックマーケットの同人作家、また、『さぶ』に投稿していた作家などであった[36]。竹宮惠子は様々な描き下ろし漫画や挿絵を発表し、中島梓は『少年派宣言」や「美少年学入門」といった少年愛にまつわるエッセイのほか、様々なペンネームを使い分けて小説を投稿した[37]。常連執筆陣は青池保子伊東愛子岸裕子坂田靖子などであった[38]。このほか、いのまたむつみ柴門ふみ高野文子まつざきあけみひさうちみちお丸尾末広吉田秋生といった漫画家が作品を投稿した[37][15][39]。また、翻訳家である栗原知代が文学紹介のコーナーを担当し[40]、イラストレーターであるおおやちきがイラストコラムを手掛けた[38]
ケーコタンのお絵描き教室

1982年1月に刊行された復刊第2号から竹宮惠子による「ケーコタンのお絵描き教室」の連載が始まった[41]。佐川によると、彼は「まんがエリートのためのまんが専門誌」をキャッチフレーズとして新人教育に力を入れていた『COM』の少女版を作りたいと考えてこの連載を作ったという[42]。第1回目では男性の唇の、第2回目では男性の手の描き分け方が紹介され、1985年1月号からは投稿作品の添削が始まった[41]。投稿作は「JUNE的な作品であれば自由」であったが、8ページの作品であることが条件として課された[43]。こうした課題を細かく設定する方法は『COM』を参考にしたものであった[42]。第1回には後にプロの漫画家としてデビューする西炯子の初投稿作が掲載された[43]
中島梓の小説道場

1984年1月号からは中島梓による「中島梓の小説道場」の連載が始まった[41]。中島はこの連載において、人称と視点の統一や投稿原稿は鉛筆で執筆しないことといった技法を解説した[44]。また、投稿作の寸評が行われた[45]。この連載に対する読者からの反響は大きかった[46]。その理由について佐川は、読者は書きたいものがあっても漫画を描くのは難しかった。そこに中島が文字で手本を見せたためであると分析している[47]


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