JUDY_AND_MARY
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JUDY AND MARY
出身地
日本東京都
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ポップ・ロック[1]

オルタナティヴ・ロック[1]

ポップ・パンク[1]

J-POP[1]

活動期間

1992年 - 1998年

2000年 - 2001年

レーベル

CHAIN SAW RECORDS(1992年)

Epic Sony Records→Epic Records(1993年 - 2001年)

共同作業者佐久間正英

旧メンバー

YUKIボーカル

TAKUYAギター

恩田快人ベース

五十嵐公太ドラムス

藤本泰司(ギター)

JUDY AND MARY (ジュディ・アンド・マリー、英略:JAM) は、日本ロックバンド。活動期間は1992年 - 1998年および2000年 - 2001年。略称は「ジュディマリ」[2][3]
略歴

1991年6月、ヘヴィメタルバンド「JACKS'N'JOKER」のメンバーとしてメジャーデビューしていた恩田が、映画『いつかギラギラする日』の撮影で北海道を訪れた際、エキストラとして参加していた当時短大生のYUKIと知り合う。映画スタッフ達との飲み会の場で、YUKIが「バンドをやりたいけどどうすればいいのかわからない」と恩田に相談した事がきっかけで[4]、その後YUKIにデモテープを送ってもらった恩田がそれを聴いたところ歌声を気に入りボーカルに抜擢、1992年2月、YUKI、恩田、藤本泰司を中心に結成。“Judy And Mary”というバンド名は快活でポジティヴな女のコ“ジュディ”とすこしひねくれ者のネガティヴな女のコ“マリー”という女の子の二面性を表しており、それがそのままYUKI自身に当てはまることもあって、以前から恩田が構想を練っていた『女のコが歌うポップで切ないサウンドをバンドでやる』というイメージは既に固まっていた[5]。同年4月、インディーズレーベルよりアルバム『BE AMBITIOUS』を発表。11月、サポートメンバーだった五十嵐公太が正式に加入。この頃は、メインのバンドを持つ恩田のサイド・ソロ・プロジェクトに近く、メンバー全員そのつもりでおり、このバンドでのデビューは目指していなかった。そのため、制作やライブの費用は全て恩田が負担し、メンバーにはギャラを支払っていた。恩田も「YUKIちゃんもこのアルバムを名刺代わりに(業界入り)出来れば」と話していた。この時点では一過性のつもりであり、アルバム発表・ライブ後は既に解散状態になっていた[6]

しかし、恩田はこのバンドへの熱意が解散後に強く湧き上がってきたため、再始動を決意。当時フリーの状態であったYUKIには予め伝え、他のメンバーにはその事を告げず、先にデビューの段取りを行い、JACKS'N'JOKERの脱退?デビュー契約など全てが整った時点で再始動を伝え、同意を求めた。五十嵐はこれに同意したものの、藤本は既にソロ・アルバムをバンドで作る構想があったため、JUDY AND MARYでのデビューは辞退せざるを得ず、脱退[6]

1993年2月、前述の理由でメジャーデビューを辞退した藤本泰司に代わる形でオーディションによりTAKUYAが加入[6]。同年9月にエピックソニーよりシングル「POWER OF LOVE」でメジャーデビュー。

1994年1月、アルバム『J・A・M』発表。12月、佐久間正英プロデュースによるアルバム『ORANGE SUNSHINE』を発表。オリコンチャート初登場5位を記録し。同アルバムを引っ提げて行なわれたツアー『ORANGE SUNSHINE TOUR』では初の渋谷公会堂公演を行なう。この頃、公式ファンクラブ「JAMP」が発足[注 1]

1995年5月、初の日比谷野外音楽堂公演を含む『JUST A MAMBO TOUR』開催。6月に発売されたシングル「Over Drive」がオリコンチャート初登場こそ4位だったものの60万枚以上を売上げるヒットを記録。12月には前作と同じく佐久間プロデュースのアルバム『MIRACLE DIVING』を発表。このアルバムも100万枚に迫る売上げを記録した。

1996年、全国ツアー『MIRACLE NIGHT DIVING TOUR 1996』を開催。初の日本武道館大阪城ホール公演を含む全国19都市23公演を行い、日本武道館公演では2日間に渡り開催。即日完売、満員を記録。2月、シングル「そばかす」がオリコンチャート初登場1位を獲得、100万枚の売上を記録した[7]。この年、同曲で「第47回NHK紅白歌合戦」に初出場した。

1997年3月、アルバム『THE POWER SOURCE』を発表。オリコンチャート初登場1位を獲得し300万枚に迫る売り上げで、バンド史上最高セールスを記録した[8]。初の国立代々木競技場第一体育館公演にして2日間公演、大阪城ホール2日間を含む全国ツアー『THE POWER SAUCE DELIVERY '97』を開催し、各地で即日完売となる。8月には横浜スタジアム阪神甲子園球場を含む、初の野外スタジアムコンサートツアー『THE POWER STADIUM DESTROY '97』を開催。同年、YUKIの喉の不調のため一時活動休止。

1998年6月、アルバム『POP LIFE』を発表、100万枚以上を売り上げる。アルバムのレコーディングはロンドンで行われた。7月より初の全国アリーナツアー『POP LIFE TOUR '98』を開催。10月3日にはTBSの「オールスター感謝祭」に回答者として出演した。12月26日には初の東京ドーム公演『POP LIFE IN TOKYO DOME』を開催。2日後にオールスタンディングのシークレットライブ『Secret Live In The Garden Hall』を恵比寿ザ・ガーデンホールにて開催。「散歩道」で「第49回NHK紅白歌合戦」に2年ぶり、2度目の出場。以降、充電期間に入る。

1999年は初のライブアルバムとライブビデオ2本をリリースした以外はJUDY AND MARYとしての表立った活動は無かった。各メンバーはソロや別ユニットで活動。

約1年間の休止の後、2000年2月、シングル「Brand New Wave Upper Ground」をリリースし、活動再開。3月には初のベストアルバム『FRESH』を発表、200万枚以上を売り上げる[9]。以降も積極的にシングルをリリースし、夏にはイベントライブにも出演。9月、YUKIが結婚を発表。11月に初のアコースティックライブ『ブエナ・ビータローカ・ソシアル・クラブバンドwithジュディ・アンド・マリー2000』をZEPP TOKYOにて開催するなど、精力的に活動。12月、翌年2001年1月にシングル、2月にはアルバムの発売を発表する。

2001年1月9日に全国紙朝刊の全面広告で解散を発表。24日に、オリジナルとしてはラストシングルとなる「ラッキープール」をリリース。2月にワタナベノブタカとの共同プロデュースによる2年8ヶ月ぶりにして最後のオリジナル・アルバム『WARP』が発売され、当日からラストライブツアー『WARP TOUR』をZepp Sapporoより開催し、各地のアリーナ会場・ドーム会場を廻り、3月7日、8日の東京ドーム2Daysライブをもって解散。


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