JPモルガン・チェース
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2017年1月、ブラックロックの資産1兆ドル超を保管・管理するカストディアン業務契約を結んだ。JPモルガン・チェースは約2年かけてブラックロックの資産をステート・ストリートから移す。[14][15]

同年12月21日、1MDBの資金を流出させ同ファンドを破綻させた巨額取引のあつかいにおいて、JPモルガン・チェース・スイスが資金洗浄防止規則に反した事実をスイス当局(FINMA)が見つけた。ロスチャイルド、クーツ商会(現ナットウエスト・グループ傘下)、UBSクレディ・スイスに続く摘発であった。重大な違反とされたにもかかわらず、罰金その他の制裁は一切なかった。銀行団の摘発は続いているが、当局は最後の対象について行名を明らかにしなかった。[16][17][18]

2018年3月、ユーロクリアから100億ユーロのリビア凍結資産が消失した事実をベルギー当局が見つけた[19]
歴史
ケミカル

1823年に創業されたニューヨーク・ケミカル・マニュファクチャリング(The New York Chemical Manufacturing Company)は化学工業会社であったが、翌1824年4月に金融業務へ参入、子会社としてケミカル・バンク・オブ・ニューヨーク(Chemical Bank of New York)が設立された。最初の頭取はバルタザール(Balthazar P. Melick)で、二代目がジョン・メイソン(John Mason)であった。1844年、親会社の営業特許が切れてケミカル・バンクもそのまま清算された[20]。1838年の銀行法に合わせてケミカル・バンクだけが再興されたが、1851年までに会社財産をあらかた売り払って株主に配当した。
来日以前からの決済機関

1853年、ケミカルはニューヨーク手形交換所(New York Clearing House)の設立メンバーとなった。1857年恐慌にあっても銀行券を兌換したので「古金塊」とあだ名された。しかし他行の窮状には冷淡であったので、一時は手形交換所から締め出された。南北戦争の間に預金総額を劇的に増やして、1871年までに600万ドルを超えた。1865年からは国立銀行法(1865年)の営業特許を得ていた。内容は特権的で、他の国立銀行の準備金を預かる立場となったのである(Federal Chemical National Bank of New York)。ケミカルの優位性は1907年恐慌までに失われた。[20]

1929年、ニューヨーク州が国立銀行法よりも高い信託業務割合を認めるというので会社形態を州法銀行に改めた(Chemical Bank and Trust Company)[20]。ケミカルは世界恐慌にあっても預金総額を1941年まで増やしつづけた[20]。1934年アイビー・リーが証言したところによると、彼がIG・ファルベンインドゥストリーのマックス(Max Ilgner)からもらった最初の年金給付45000ドルは、IGケミー名義でケミカルの投資信託(New York Trust Company)へ預託されていた。

1945年10月ごろ、日本が貿易するのに使われる外貨中心の対外決済資金をアメリカ陸軍省がケミカルに預託した。この決済資金は後にSCAPへ移管され、手続が1951年8月末には完了した[21]。SCAP勘定の預金口座は次の各行(いずれも東京支店)へ開設された[22]。すなわちニューヨーク・ナショナル・シティーバンカメ、チェース・ナショナル、香港上海銀行チャータード、和蘭銀行、蘭印商業銀行である。このうちバンカメとチェース・ナショナルを除く5行の財産は日銀の管理下にあったが、1951年12月24日までにすべて返還された[23]。ケミカルはロビー団体のアメリカ対日協議会と関係していた。
アナコンダ救済とリースコ事件


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