JAGATARA
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JAGATARA(じゃがたら)
別名エド&じゃがたら
エド&じゃがたらお春
財団呆人じゃがたらお春
財団法人じゃがたら
暗黒大陸じゃがたら
Jagatara2020
出身地
日本
ジャンルロック
ファンク
ワールドミュージック
アフロビート
パンク・ロックポストパンク(初期)
活動期間1979年 - 1990年
2020年 -
レーベルアグリーオーファン
バルコニー
BMGビクター
公式サイトJagatara2020

メンバー江戸アケミ(ヴォーカル)
EBBY(ギター)
OTO(ギター)
ナベ(ベース)
中村ていゆう(ドラムス)
篠田昌已(サックス)
ヤヒロトモヒロ(パーカッション)
村田陽一(トロンボーン)
エマーソン北村(キーボード)
南流石(コーラス)
政野早希子(コーラス)

旧メンバー川辺徳行(ドラムス)
尾島秀紀(ギター)
ウメ(ドラムス)
溝口(ドラムス)
SAMMY(ドラムス)
吉田哲治(トランペット)
ユカリ(コーラス&サックス)
長嶌 BEM 宏(サックス)
金田トメ善裕(キーボード)
翁長巳酉(オナガミドリ)(パーカッション)
佐藤春樹(トロンボーン)
ホワチョ(パーカッション)
奥村恵子(パーカッション)

JAGATARA(じゃがたら)は、江戸アケミをリーダーとする日本のファンク・ロックバンド

1979年3月活動開始。1982年にアルバム『南蛮渡来』を発売。1983年から1985年にかけては江戸の精神的不調により活動休止。1989年にはアルバム『それから』でBMGビクターよりメジャーデビュー。1990年1月27日江戸の入浴中の事故死により、解散した。

その後も数度に亘り散発的に「JAGATARA」を冠した公演が行われ(後述)、江戸の没後30年である、2020年1月27日(江戸アケミ命日)より「Jagatara2020」として再始動。
来歴
前期(1979 - 1985年)

1979年3月8日、上馬ガソリンアレイにて初ライブを行う。この時の名称は「エド&じゃがたら」[1]。メンバーに物足りなさを感じた江戸アケミヴォーカル)は、渋谷のヤマハにメンバー募集の広告を出し、そのチラシを見たEBBYギター)が加入。その他、尾島秀紀(ギター)、川辺徳行(ドラムス)、その川辺の誘いで加入したナベベース)の初期メンバー5人で「エド&じゃがたらお春」名義で7月に2度目のライブを行う。後に「財団呆人じゃがたらお春」「財団法人じゃがたら」などと名称はライブを行うごとに徐々に変化。

1980年頃から江戸が自分の額をナイフで切りつけて流血する、ニワトリやシマヘビを生きたまま食いちぎるなどの過激なパフォーマンスを新宿のストリップ劇場モダンアート、吉祥寺マイナー新宿ロフト自販機雑誌HEAVEN」主催の「天国注射の夜」(新宿ACB会館)などで行うようになり、それがエログロ的な関心を集め「週刊プレイボーイ」などの一般誌にも取り上げられた。ザ・スターリン遠藤ミチロウはこの影響を受け、過激なパフォーマンスを始めたと述べている[2]

1981年4月、自らのレーベル・アグリーオーファンレコードより、1st.シングル『LAST TANGO IN JUKU』をリリース。初の関西ツアーを行う。パフォーマンス目当ての客でどこでも大入りになるが、江戸は音楽がまともに聞かれない状況に嫌気がさし、このツアー以降、音楽だけで勝負する決意をする。9月に尾島が脱退し、元MARIA023のOTO(ギター)が加入しファンクアフロビート色を強め、バンド名を「暗黒大陸じゃがたら」に改称する。

1982年、前年から川辺?ウメ?溝口と短期間に脱退したドラムスの後任として、2月にSAMMYが加入。5月、1st.アルバム『南蛮渡来』をリリース。中村とうよう渋谷陽一らに絶賛され、初期の過激なパンクロックとこれ以降のファンク・アフロ・レゲエなどの要素が混淆した独特の音楽性は、プレスにおいても純粋に音楽的な評価を受けた。10月「ヤングTOUCH!」(テレビ東京)に出演、生放送ライブ中のスタジオに突然G.I.S.M.の横山SAKEVIらが乱入、江戸と乱闘になる。同月「渋谷陽一のサウンドストリート」(NHK-FM)に出演。多数のライブに出演し、以前のエログロイメージを吹っ切るかのように音楽中心の活動を展開した。

1983年、「じゃがたら」へバンド名を改称。駒場のマンションの屋上に専用の「じゃがたらスタジオ」を作る。5月、町田町蔵らをゲストに迎え、そのスタジオでレコーディングした8インチEP『家族百景』をリリース。PUNGOなど多数のバンドで活動していた篠田昌已サックス)、初期からゲスト参加していた吉田哲治(トランペット)、佐藤春樹(トロンボーン)という元生活向上委員会のホーンセクション3人が加入。さらに、前年11月に脱退したSAMMYの後任として、元AUTO-MOD、ザ・スターリンなどの中村ていゆう(ドラムス)が加入。8月に日比谷野外音楽堂で行われた雑誌「HEAVEN」主催の伝説的音楽イベント「天国注射の昼」に出演するなど精力的な活動を繰り広げるが、11月の関西ツアーの途中から江戸が精神疾患を患い、ライブをすっぽかす、ライブ中に急に歌わなくなる、ナベ以外のメンバーとは一切会話をしなくなる等の奇行を繰り返し、同月末から入院することになる。

1984年1月に内田裕也の誘いでNew Years Rock Festival、2月に渋谷屋根裏と、江戸は一時外出許可を得て出演した後、3月に故郷の高知県中村市(現四万十市)に帰郷し長期療養期間に入る。なお、江戸の休養中、バンドは解体の危機に瀕するもOTOを中心に「じゃがたら2世」として活動を続行し、江戸の復帰を待ち続けた。

故郷で静養していた江戸は、初期のマネージャーでもある映画監督・山本政志の尽力もあり、1985年9月に日比谷野外音楽堂で行われたイベント「アース・ビート伝説'85」で復帰。そのライブから、ヤヒロトモヒロ(パーカッション)、元タンゴ・ヨーロッパのユカリ(コーラス)が加入。そして、江戸の発病前後のライブの模様がアルバム『君と踊りあかそう日の出を見るまで』として10月にリリースされる。
後期:江戸アケミ復帰以後(1986 - 1990年)

1986年から江戸が東京で暮らす準備ができ、本格的に活動再開。6月に振付師として活躍していた南流石(コーラス)、9月に村田陽一トロンボーン)が加入。9月、MUTE BEATTOMATOSS-KEN & HOT BOMBOMSと共に、シリーズ・イベント「東京ソイソース」の第1回を開催(1988年まで計5回開催、第1回のみ渋谷ライブイン、2回目以降はインクスティック芝浦ファクトリー)。東京ソイソースでは、ライブとライブの間にDJが入るという初めての試みをし、いとうせいこう&タイニー・パンクス近田春夫ランキン・タクシーECDなども出演した。11月の六本木インクスティックでのライブでは以前のイメージとは結びつきそうになかった全員赤の揃いのジャケット姿で登場。12月にライブ・ビデオ『み・ん・な』をリリース。同月「ライブ・ジャック」(フジテレビ)に出演。なお、1986年頃からライブや作品で「JAGATARA」とバンド名をクレジットするようになる。

1987年3月に2nd.アルバム『裸の王様』、4月にライブ・12インチEP『UKI UKI』、10月に山本政志の映画『ロビンソンの庭』サウンドトラック、12月に3rd.アルバム『ニセ予言者ども』と矢継ぎ早に作品をリリース。4月の4時間踊りっぱなしのライブ「DANCEMANIA 4 HOURS」(渋谷パルコ・パート3)、その他多数のライブ、学園祭等に出演し観客動員も急上昇する。また、横浜寿町フリーコンサートにも1983、1986、1989年の3度参加している[3]

1988年、3月にライブ・12インチEP『JA・BOM・BE』とライブ・シングル・ビデオ『例のヤツ』、8月にライブ・ビデオ『HEY!GOGGLE』をリリース。エマーソン北村キーボード)が加入。

1989年4月に4th.アルバム『それから』、シングル『タンゴ完結ヴァージョン』でBMGビクターよりメジャーデビュー。ミュージック・マガジンの1989年ベスト・アルバム・日本のロック部門で1位に選ばれるなど高い評価を得た。12月に3曲入りの5th.アルバム『ごくつぶし』をリリース。なお、メジャーデビュー前に吉田哲治が脱退。秋にユカリが脱退し、後任コーラスに政野早希子が加入。


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