J-POP
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しかし1988年の年の暮れ[5]、同社常務・斎藤日出夫(2012年より社長)がレコード会社の邦楽担当者らと共に、J-WAVEで邦楽を流そうという企画が発足する。レコード会社側も「洋楽しか流さないJ-WAVEが流した邦楽には希少性があり、それを集めたコンピレーション・アルバムを出す」などと言った目論見もあったという[6]

この際に「日本ポップス」をどう呼称するのかが検討され(斎藤日出夫によれば、いつまでも和製○○などと言っていてはいつまでもオリジナルを越えられないという点があった[7])、ジャパニーズ・ポップス、ジャパン・ポップス、シティ・ポップス、タウン・ポップスなどが検討されたが、「ジャパニーズ・ポップスにせよ、ジャパン・ポップスにせよ、頭文字Jとなり、そしてここは、J-WAVEだ」という意見が出され、Jの文字を用いることとされた。ジャーナリスト烏賀陽弘道によれば、当時1985年に日本専売公社が民営化され日本たばこ産業=JTになった時代であり、1986年に浜田省吾アルバムJ.BOY』を発表、1987年に日本国有鉄道が分割民営化されJRに、日本を表す「J」という文字が定着してきた時期であったことも一因とされるのではないかとしている[8]。これが「J-POP」という語の誕生の瞬間であり、この時点ではあくまでJ-WAVE内部のみでの呼称であった[9]。関係者の証言により異なるが、1988年末か1989年初頭頃のことである[9][10]

このジャンルは、マスメディア側が先導する形で音楽カテゴリーのひとつとして誕生し、それにふさわしい音楽を売り手側が分類しているという点において、グラムロックパンク・ロックグランジオルタナティヴ・ロックヒップホップなどといった他の音楽ジャンルと異なる、大きな特徴といえる[11]。斎藤日出夫によれば当初の部類は多分に感覚的であり、演歌クラシック音楽はだめ、サザンオールスターズ松任谷由実はOK、アリスCHAGE and ASKAは違うなどとされていたが、明確な根拠などはなかった。しかし洋楽の何かに影響を受けたとわかる音楽、洋楽と肩を並べられる音楽が選ばれたという[12]。そして1989年秋には、J-WAVEで「J-POP・クラシックス」のオンエアが開始される[12]

博報堂発行の雑誌広告』1992年1、2月号では、当時の音楽状況を論じた「MUSIC 特集 音楽シーンはどうなっとるのか!」という27頁にも亘る特集を組み、「【現在音楽用語の基礎知識】『渋谷系』なんか怖くない!!(WORDS)」というタイトルで「J-POP」を取り上げており[13]、検証可能な文字媒体の出典としては、これが「J-POP」という言葉の初出なのかもしれないが、シャ乱Qシングルシングルベッド」に対する脚注として「J-POP」の説明があり、「J-POP=ジャパニーズ・ポップスの総称。レコードショップの邦楽コーナーは『J-POP』と表記されることが多い。厳密な定義はない。Jリーグ、Jビーフと同じ用法」と書かれている[13]。この特集は27頁にも及ぶが、「J-POP」という言葉の使用は1回だけで、他に「J〇〇」という言い方では「Jラップ」という言葉の使用もある[13]
1990年代
CDとデジタル音楽制作技術の導入1980年代末、デジタル技術の進歩に伴い、実用的な音色を満載し、普及価格帯のPCM音源のトレンドを決定付けたKORG M1

1990年代は邦楽が大変革を遂げた年代である。機材のコモディティ化が進み、PCM音源やサンプラーが安価になったことで、制作者が多彩な音色を扱えるようになった。また、打ち込みが当たり前に使われるようになったことで、音の厚みとBPMが急速に増加し、楽曲の展開も複雑になった。打ち込みの普及は楽曲の量産やボーカルの加工に繋がり、商業音楽の工業生産が可能となった。ソフトロック・テクノ・ハウス・トランス・R&B等、世界的に評価された洋楽の表現手法が大々的に導入され始め、「まるで洋楽のよう」な新時代の邦楽として高く評価されるようになった。従って、機材の進化による音質向上や、邦楽全体としても、洋楽を邦楽に翻訳したような感覚の音楽が主流となり、表現はよりポピュラーになって、コード進行、リズム、テンポ自体もJ-POP化された音楽が次々に登場した。

1982年に登場したコンパクトディスク (CD)およびその再生装置の爆発的な普及により音楽市場が一気に拡大し、CDをはじめとしたデジタル技術は音楽制作現場においても革変をもたらした。これまでテープの切り貼りなどアナログ的な技術で行っていた編集作業はデジタル技術によるものへと移行し、音楽制作に要する人・時間・予算の大幅な削減を可能にし、またいくらコピーしても劣化がなくなり、やり直しも簡単に行えるようになった[14]。またシンセサイザーミュージックシーケンサーMIDI楽器の普及により、一部については楽器の演奏を行う必要すらなくなった[15]MIDI音源として低価格で高性能な製品が発売され、DTMブームも起きた。

そしてコストダウンと作業の迅速化により、楽曲の量産が可能となった[16]

この結果レコード会社側も、駆け出しのミュージシャンについて、気軽にCDを作成することができるようになり[17]、日本レコード協会の『日本のレコード産業』によれば、1991年の1年間で実に510組のバンド・歌手がデビューしている[17][18]。またCDの普及は聞き手側の負担をも削減した。従来、レコードを再生するステレオは良い物で25万円、普及品でも10数万円し、取り扱いも煩雑であったものが、CDプレイヤーはポータブル型であれば1万円を切る価格で購入できた[19]。実際に1984年から2004年にかけての20年間で3737万台のCDプレイヤーが出荷されているが、従来のレコードプレイヤーは42年かけて2341万台しか出荷されていない。さらにCDプレイヤーとは別に、「CDラジカセ」が1986年から2004年にかけて、5225万台も生産されている[20]。CDミニコンポは1990年から2004年までに3028万台が出荷[21]。累計すると2004年までに1億1990万台、うち92%にあたる1億1032万台がミニコンポ・CDラジカセ・携帯型と言った安価なものである[22]

1985年に発売された最初のCDミニコンポの価格は25万円程度であったが、わずか2年後の1987年には10万円を切る価格となった[21]。1985年春、オーディオメーカー・パイオニア常務は朝日新聞紙上で「この1年間で大型のシステムコンポはほぼ無くなり、10万円程度のミニコンポにとって変わった。需要の95%はミニコンポである」と語っている[23]。音楽再生装置は大衆化を成し、一家に一台から一人一台の時代へ足を踏み入れる[24]。オーディオは高級な趣味ではなくなり大衆化し、十代の若者や女性も音楽業界の顧客となった[25]。その結果女性向けの「ガールズ・ポップ」などといったジャンルも誕生していく[26]

しかし、制作環境のデジタル化に伴いそれまで製作現場で実際に楽器を演奏していたスタジオ・ミュージシャンの仕事が激減するなどの弊害も生まれた[27]。こうした制作環境の変化に伴う大量生産による音楽制作はミリオンヒットが出現する確率は高まるが、没個性化・質の低下が進み、音楽が消耗品として見られるようになるなど、批判の声もあった[28]ソニー・ミュージックエンタテインメント(当時)の坂本通夫は、1991年を音楽業界の転換点として「音楽が作品から商品に移り変わった時」と語っている[29]

またパソコン通信を経てインターネットが普及し、CDに頼らずとも作品を提供する事が可能になっていく。当時は回線速度が低いため在野のミュージシャンによるMIDIが中心であったが、こうして後にインディーズ音楽家が登場する土壌が生まれた。
バブル景気とデステクノ

1986年12月から1991年2月までの51か月間続いたバブル景気により新宿、原宿、六本木、青山などでは空前のディスコブームが起きていた。1984年麻布十番マハラジャが開店。1991年3月から1993年10月にバブル崩壊と呼ばれる急激な信用収縮、不動産相場の急落が起きるが、ディスコブームの流行は冷めやらず、芝浦ジュリアナ東京などではイタロ・ハウスや更に過激に進化したハードコアテクノと呼ばれる激しいダンス・ミュージックが流された。ジョン・ロビンソンの「TOKYO GO!」等が有名である。この頃のダンス音楽流行は日本のポップス市場にも影響し、1993年にデビューしたTRFは1994年から1995年にかけて発売したシングル5作連続でミリオンセラーを記録。

しかし、バブル崩壊後の不況の深刻化と警察の取り締まり強化等により急速に熱狂は終息し、六本木ヴェルファーレや渋谷のユーロビートパラパラ流行に移っていく事になる。
CMソングの流行

バブル景気時代のスキーブームを受けて、1988年にJR東海「ホームタウン・エクスプレス X'mas編(現・クリスマス・エクスプレス)」CMに使用された山下達郎クリスマス・イブ」、1987年公開の映画『私をスキーに連れてって』で使用された松任谷由実恋人がサンタクロース」等と並ぶ冬の定番曲が多く生まれた。JR東日本のスキー旅行キャンペーンJR SKISKICMソングのZOOChoo Choo TRAIN」、アルペンCMソング広瀬香美ロマンスの神様」などである。他にもCMソングで、日本航空夏の沖縄旅行キャンペーンの米米CLUB浪漫飛行」が1990年に大ヒットしている。1996年には奥田民生プロデュースPUFFYアジアの純真」がヒットした。
不況と応援ソング

バブル崩壊で社会に停滞感が漂うようになると応援ソングが流行していった[30][31]。また、歌詞に「夜」「夢」「心」「今」等のワードが増えた[32]バブル崩壊後の音楽市場は再び生きづらさを歌う作品が主流になり、シティポップは表舞台から消えた[33]

バブル期のサラリーマンソングであったKAN愛は勝つ」に始まり、槇原敬之どんなときも。」、大事MANブラザーズバンドそれが大事」、ZARD負けないで」、岡本真夜TOMORROW」等、ミリオンセラーが次々に誕生。「愛は勝つ」など、1990年代初頭のヒット曲の多くは「カノン進行」「がんばろう系カノン」と呼ばれるコード進行を用いていると指摘される[34][35]
ミリオンセラーの続発

1992年ごろから「ミリオンセラー」という現象が続発するという事象が発生しはじめる。1991年のミリオンセラーは9作品(シングル・アルバムの合算数。以下同様)、1992年は22作品、1994年にはその数は32作品を記録した[36]

ミリオンセラーが続出するようになった1992年ごろは日本の大手コンビニ各社が店頭で音楽CDを売り始めた時期であり、音楽評論家の能地祐子は、この頃からレコード店に縁のなかった層がCDを買い始めたことで音楽の変質が始まったと推測している[37]。また、トップ10のアーティストだけで年間売上シェアの4割を占めるなど、先の楽曲の大量生産と相まって一握りの成功者と、その他という図式が出来上がるようになった。ヒット曲はテレビドラマかCMがらみという傾向が定着し[38]、ミリオンセラーが続出しても老若男女誰もが知っている歌は無いという状況がますます進行した[39]
渋谷系

雑誌『ELLE』1993年11月21日号では「ジャパニーズポップ」と呼ばれる言葉でコーネリアスピチカート・ファイヴといった、いわゆる渋谷系と呼ばれるバンドの紹介を行っている[40]
カラオケボックス+タイアップソング体制


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