母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持ち、1812年以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曽祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から服地と靴下を商っていた[4]。 オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ルーエル・トールキン(1857?1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド)(1870?1904)の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる[5]。 アフリカに住んでいたとき、庭でタランチュラに噛み付かれた[6]。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった[7]。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホール
子供時代
母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた[10]。植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語の基本を教えた[11]。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校(英語版)に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり[12]、学資不足のためセント・フィリップス校(英語版)に一時籍を移したりもした。
1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗した[13]ため、全ての財政援助は中断された。その母は1904年に糖尿病で亡くなり、トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった[14]。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイスをキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった[15]。バーミンガムのエッジバーストンの塔の影
孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区(英語版)にある、バーミンガムオラトリオ会(英語版)のフランシス・シャヴィエル・モーガン(英語版)司祭であった。トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設(英語版)のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。