J・R・R・トールキン
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トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(英語版)(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる[9]

母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた[10]植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語の基本を教えた[11]。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校(英語版)に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり[12]、学資不足のためセント・フィリップス校(英語版)に一時籍を移したりもした。

1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗した[13]ため、全ての財政援助は中断された。その母は1904年糖尿病で亡くなり、トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった[14]。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイスキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった[15]バーミンガムのエッジバーストンの塔の影

孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区(英語版)にある、バーミンガムオラトリオ会(英語版)のフランシス・シャヴィエル・モーガン(英語版)司祭であった。トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設(英語版)のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズラファエル前派ロマン主義の絵画だった。バーミンガム美術館には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。
青年時代

16歳のときに3歳年上のエディス・メアリ・ブラットと出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った[16]

1911年、キング・エドワード校に在学中の3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、半ば公然の「秘密結社」である「T.C.B.S.」を結成した。これは、学校の近くのバロウズの店(英語版)や学校図書館で不法にお茶を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である[17]。学校を去った後もメンバーは連絡を保ち続け、1914年12月にロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになる。

1911年夏、友人たちとスイスに遊びに行ったが、1968年の手紙[12]にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人がインターラーケンからラウターブルンネンまでを縦走し、ミュレンの先の氷堆石まで野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)霧ふり山脈を越えるビルボの旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、ユングフラウとシルバーホルン(英語版)(「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等はクライネ・シャイデックを越えグリンデルワルトへ向かい、グレッセ・シャイデック(英語版)を過ぎてマイリンゲン(英語版)に、さらにグリムゼル峠を越え、アッパーヴァレーを通りブリーク、そして、アレッチ氷河ツェルマットに着いた。


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