J・R・R・トールキン
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1972年3月28日エリザベス2世からCBE(大英帝国勲章コマンダー勲爵士)を受勲した。

没後、息子のクリストファは彼の残した膨大な覚え書きや未発表の草稿をまとめ、『シルマリルの物語』、『終わらざりし物語』、『中つ国の歴史(英語版)』などを出版した。これらは、生前に出版された作品とあわせ、「アルダ」や「中つ国[* 2]と呼ばれる架空の世界に関する物語、詩、歴史、言語、文学論の体系を形作っている。1951年から1955年にかけ、トールキンはこのような書き物の総体を legendarium (伝説空間、伝説体系)と呼んでいた[1]

小惑星(2675) Tolkienはトールキンの名前にちなんで命名された[2]
生涯
家系

父方の先祖のほとんどは職人であった。故地は現在のドイツザクセン州にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという[3]。苗字のTolkienは、ドイツ語のTollkiehn(注:tollkuhnは「無鉄砲」の意)を英語化したものである。強いて語源に沿って英訳するならば、dull-keen(注:日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法(oxymoron、こちらは古代ギリシア語由来で「鋭い・鈍い」の意味)の言葉である[* 3]

母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持ち、1812年以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曽祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から服地と靴下を商っていた[4]
子供時代

オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ルーエル・トールキン(1857?1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド)(1870?1904)の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる[5]

アフリカに住んでいたとき、庭でタランチュラに噛み付かれた[6]。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった[7]。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホール(英語版)に移った。ここは当時ウースターシャーの村で、現在はバーミンガムの一部である[8]。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる[9]

母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた[10]植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語の基本を教えた[11]。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校(英語版)に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり[12]、学資不足のためセント・フィリップス校(英語版)に一時籍を移したりもした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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