J・D・サリンジャー
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1939年春になると、コロンビア大学に入学し[20]、文芸誌『ストーリー』の編集長ホイット・バーネット(英語版)の創作講座を受講した。バーネットは自身が創刊した雑誌『ストーリー』に多くの新人作家の作品を掲載し、世間に紹介してきたことで知られる(トルーマン・カポーティジョゼフ・ヘラーノーマン・メイラーなど)[21][22]。サリンジャーはバーネットの講義に大きな影響を受け[23]、処女作『若者たち』 (The Young Folks) を『ストーリー』 (1940年3月-4月号) に掲載することに成功する[24]。原稿料はわずか25ドルではあったが、これによりサリンジャーは商業小説家としてデビューを果たした[25]。また、これがきっかけで小説が他の文芸紙にも掲載されるようになる[26]

1941年に『マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗』 (Slight Rebelion off Madison) が『ザ・ニューヨーカー』に掲載が決まる。12月中に掲載される予定となったが太平洋戦争の開戦による影響で作品の掲載は無期延期となってしまう(結局5年後の1946年に掲載される)。ちなみにこの短編は、作家の分身とでもいうべきホールデン・コールフィールドが初めて登場した作品である。

1941年から、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールと交際しており、軍務に就いてからも文通していたが、ウーナは1943年に突如チャールズ・チャップリン結婚してしまう。
軍歴

1942年太平洋戦争が勃発。サリンジャーは徴兵によりアメリカ合衆国陸軍へ入隊する[27]。2年間の駐屯地での訓練を経た後、第4歩兵師団第12歩兵連隊に配属された[28]1944年3月イギリスに派遣され、6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し、激戦地の一つユタ・ビーチに上陸[29]。同年12月にはバルジの戦い[30]、その後にはヒュルトゲンの森の戦いに従軍した[31]。これらの連戦により、サリンジャーが配属された第12歩兵連隊は、3080人のうち、 すでに2517人が戦死していた[32][33]

戦時中、パリの解放後に新聞特派員としてパリを訪れたアーネスト・ヘミングウェイと知り合う[34]。現役中に書いた『最後の休暇の最後の日(The Last Day of the Furlough)』を読んだヘミングウェイはその才能を認めて賞賛したという[35][36]。サリンジャーは1944年9月4日に書いた手紙において、ヘミングウェイの作品が「硬い印象」だったのに対して、ヘミングウェイ自身は寛容で親しみやすい人であった、と記している[37]。一方、戦後には「ライ麦畑でつかまえて」内においてヘミングウェイの著作である「武器よさらば」を否定的に描写した[38]

1945年4月、ダッハウ強制収容所の外部収容所として知られるカウフェリンクIV強制収容所を解放する任務に参加し[39]ホロコーストを目の当たりにする[40]。カウフェリンクにはドイツ敗北前に「処理」された数百体の焼死体が残されていた[41][42]。これらの経験から精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は戦闘神経症(現在ではPTSDと呼ばれる)と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する[43]。入院中にドイツ人女性医師シルヴィア・ヴェルターと知り合い結婚1945年11月除隊。

サリンジャーは作中において第二次世界大戦の過酷さを多数描写しているが、自身の経験として直接的に言及することを一切せず、避けた[44][45]
『ライ麦畑でつかまえて』

1945年12月に『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品『僕はちょっとおかしい(I'm Crazy)』が雑誌『コリアーズ』に掲載される[46]1946年、シルヴィアと7ヶ月で離婚[47]ヤッピーのような生活を送り、またニューヨークのボヘミアンとも多く交流を持つようになる。

1949年頃、コネチカット州ウェストポートに家を借り執筆生活に専念、『ライ麦畑でつかまえて』の執筆を開始した。1950年1月、短編小説『コネチカットのひょこひょこおじさん』(『ナイン・ストーリーズ』収録作品)の映画化『愚かなり我が心』をハリウッドサミュエル・ゴールドウィンが全米公開するが、映画の評判は芳しくなく、サリンジャーもこの映画を見て激怒し、それ以来自分の作品の映画化を許可することはなかった。1950年秋『ライ麦畑でつかまえて』が完成する。当初ハーコード・プレスから作品は出版される予定だったが、「狂人を主人公にした作品は出版しない」と出版を拒否される。結局リトル・ブラウン社から刊行された。文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しい非難を受けた。しかし主人公ホールデンは同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。2010年代以降でも毎年約50万部が売れているとされる。
隠遁生活

1953年、サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』の成功によって、ニューヨークで静かな生活を送ることが困難になった[48]。その結果、コネチカット川が流れる、ニューハンプシャー州の南西部コーニッシュの土地を購入し、ライフラインが乏しい家で原始的な生活を送りつつ執筆を続けた。地元コミュニティに参加し、地元の高校生達を家に招くなど交流を深めることになる[49]。しかし親しくしていた女子高生の1人が、学生新聞の記事として書くことを条件に受けたインタビューの内容を、スクープとして地元の新聞にリークしてしまった[50]。このことにサリンジャーは激怒し、高校生達とも縁を切り、社会や地元コミュニティから孤立した生活を送るようになった[51]。これらの状況により、マスメディアはサリンジャーを「隠遁した小説家」として報道した[52][53]


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