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日本のサッカー界は、1993年(平成5年)のJリーグ創設を経て、日本代表など国内サッカーの強化に繋がる優秀な選手を育成するための活動拠点となる施設の確保が急務とされた。同時に、日本でサッカーを行う環境が、質的(天然芝グラウンドの管理水準の低さや他競技との兼用に因る使い勝手の悪さ)にも、量的(競技人口に対するグラウンドの不足)にも不足していることが問題となっていた。また、日本は同時期に2002 FIFAワールドカップ招致に向けて動き出しており、そのきっかけとして新たなサッカートレーニング施設を欲していた[13]。
一方で、福島県内に原子力発電所を含む多くの施設を所有していた東京電力は、1994年 (平成6年)に地元への貢献として地域振興施設の造営・寄贈を行うという提案を行った[6][13]。この時、ちょうど地域密着を掲げて人気を博していたサッカーと結びつけた整備が適当と判断され、日本サッカー協会が協力する形でナショナルトレーニングセンターを設立する合意がなされた。
なお、建設予定地は東京電力の発表当初未定とされ、1994年(平成6年)9月26日の福島県議会で「当社の発電所がある自治体への建設を希望している」とのコメントが示された。必要な敷地は30?40ha、構想発表時点で完成イメージ図も添えられていたため、『政経東北』のように事前に地元町村と綿密に打ち合わせしたものと受け取ったマスコミもあった。これに応じ、福島第一原子力発電所7・8号機の増設予定地に当たる双葉町の企画開発課長は「個々の町村が誘致運動をやるのは控えるよう町村会で確認している。仮に40ヘクタールほどの土地なら双葉町で確保できるだろうが、現実の問題として施設の維持、管理はどこがやるのか、現在の交通機関で全国から来る選手たちをスムーズに受け入れられるかなど、かなり難しい点がある」と述べている[14]。
結局、東京電力は1995年(平成7年)から、同地にある広野火力発電所に隣接した広野町町有地に建設を決定、約130億円をかけて施設整備を開始、5000人収容のサッカースタジアムや各種球技に対応可能な天然芝グラウンド、屋内トレーニング施設、宿泊施設等を建設した。1997年(平成9年)に竣工した施設は福島県へ寄贈され、福島県の外郭団体である県電源地域振興財団の所有となった。
同時に施設運営のために福島県、日本サッカー協会、東京電力からの各10%の出資を中心として株式会社日本フットボールヴィレッジを設立し、ここが施設を借り受ける形でJヴィレッジの管理・運営を行った。
なお、当時この施設寄贈は当時から福島第一原子力発電所7・8号機増設の見返りとしてマスメディアにたびたび指摘され、県内の原子力発電所におけるプルサーマル実施を承認させる見返りではないかとする指摘もあった。しかしその後、プルサーマル関連の不祥事や東京電力原発トラブル隠し事件の発覚によって実施自体が大きく遅れ、増設計画やプルサーマル計画のスケジュールとは無関係に完成・運営が続けられた。「福島第一原子力発電所7、8号機の増設計画の経緯」も参照
建設に投じられた130億円について『政経東北』は「教育奨学財団をつくり、浜通り一帯の高校生、大学生の奨学資金に充てるという提案なら、県民に率直に受け入れられたのではあるまいか」と報じた[14]。また『政経東北』1997年4月号では福島県が浜通りを放置してきたとし、「地域振興に努めてリードすべき県が何もせず、東京電力がJビレッジの青写真を提示し、建設するという怪」と県の姿勢を報じている[15]。
原発事故対応拠点国土地理院が撮影したJヴィレッジの俯瞰空中写真。2012年(平成24年)4月1日撮影。福島第一原子力発電所事故の経緯、フクシマ50もあわせて参照Jビレッジ内の東京電力指揮所を視察する菅直人内閣総理大臣。Jビレッジの放水冷却隊を激励する菅直人内閣総理大臣。Jビレッジの戦車隊を視察する菅直人内閣総理大臣。
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が発生したが、ここで人的な被害はなかった[16]。同日は避難所として機能していた[17]。
福島第一原子力発電所事故が発生し、同原発から20キロメートル圏内にあることから避難指示区域、後に警戒区域に入ったため、翌3月12日から別の場所への避難を開始した[3][17]。