IMSA_GT選手権
[Wikipedia|▼Menu]

IMSA GT選手権
カテゴリスポーツカーレース
国・地域北米
開始年1971
終了年1998
1991年オハイオ、日産グランプリ、ミッドオハイオ・スポーツカーコース(前から順に)トミー・ケンダルとウェイン・テイラー(両方ともイントレピッド・RM-1)、勝者のデイビー・ジョーンズジャガー・XJR-16)、続いてジェフ・ブラバムチップ・ロビンソン(両方とも日産・NPT-91)、ラウル・ボーセル(XJR-16)とジェームズ・ウィーバーポルシェ・962[1][2]

IMSA GT選手権はかつて開催されていた、国際モータースポーツ協会(IMSA)が主催したスポーツカーレースシリーズだった。レースは主に米国で行われ、カナダでも行われた。
歴史

シリーズは1969年にジョンとペギー・ビショップ[3]とビル・フランス・シニア[4]によって設立された。レースは1971年に始まり、当初はFIAのストックカーカテゴリーの2つを対象としており、GT(グループ3および4)およびツーリング(グループ1および2)クラスにそれぞれ2つのクラスを走らせた。最初のレースはバージニア・インターナショナル・レースウェイで開催された。ドライバーと観客が集まり、予想以上の成功を収めた[5]

翌年、ジョン・ビショップはスポンサーのR.J.レイノルズ・タバコを招き、1975年に新しいカテゴリーであるオールアメリカングランドツーリング(AAGT)を導入した。1977年にシリーズは大きな変更をした。IMSAは、ターボチャージャー車のレースへの出場を初めて許可し、翌年にグループ5のルールに基づいて新しいカテゴリーであるGTXを導入した。1981年、ビショップはFIAが新たに導入したグループC規定に従わないと決定した後、スポーツプロトタイプ用のGTPクラスを導入した。1989年、ビショップは自身の組織、IMSAを売却した。1990年代初頭にシリーズが衰退した後、1993年にオープントップのスポーツプロトタイプカテゴリーが導入され、1994年に最高峰のGTPクラスに取って代わった。FIAによるクラスの命名で、当時の別のシリーズであるヨーロッパのフランス西部自動車クラブ(ACO)によるスポーツプロトタイプのル・マン・プロトタイプのシリーズとは異なり、新しいクラスはIMSA ワールドスポーツカー(WSC)に指定された。

複数の所有者がいた期間の後、組織はプロフェッショナルスポーツカーレーシング(PSCR)に改名され、最終的に組織はドン・パノスが所有した。1999年、PSCRはACOと提携し、ACOのルールブックを採用することを決定し、シリーズの名称をアメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)に変更した。シリーズは、さまざまな名称あるが、通称「IMSAシリーズ」と呼ばれていた。1999年-2013年までのALMSと現在のユナイテッド・スポーツカー選手権が、IMSA GT選手権を引き継いだシリーズと見なされている。
初期のクラス分け1981年IMSA ロードアトランタで開催されたレースでの、GTO、GTU、GTPマシン[6]

1971年が最初のシーズンであり、6レース開催された。シリーズの初期には、ヨーロッパのグループ2およびグループ4クラスと同様に、4つのグループに分けられたGTカーが登場した。

GTO - 排気量2.5L以上のエンジンを搭載したグランドツーリングタイプの車[5]。文字Oは「2.5Lオーバー」を意味する。 GTOクラスは、コルベットシェルビー・マスタングクーガー日産・280ZX(英語版)、トヨタ・セリカ日産・300ZX(英語版)などで、様々なファクトリーチームが参戦した。

GTU - 排気量2.5L未満のエンジンを搭載したグランドツーリングタイプの車。文字Uは「2.5L未満」を意味する。GTUクラスは、1980年代の終わりまで、ポルシェ・914-6 GTとSA22型マツダ・RX-7 (1978?1985)によって支配されていた。

TO - 排気量2.5L以上のエンジンを搭載した、シボレーカマロなどのツーリングカー

TU - 排気量2.5L未満のエンジンを搭載したツーリングカー。

GT選手権の歴史
キャメルGT時代

最初のGTUクラスチャンピオンは、ポルシェ914-6 GTUの、ピーター・グレッグハーレイ・ヘイウッドだった。IMSAの初期の勝者の多くは、ポルシェ・911カレラRSRシボレー・コルベットだった。キャメルは2シーズン目からにタイトルスポンサーになり、シリーズはキャメルGTチャレンジシリーズとして知られるようになった。スポンサーの企業デカールは、すべてのレースカーの左右に表示され、はっきりと見える必要があった。また、キャメルの企業ロゴパッチは、ジョーキャメルが笑顔でタバコを吸う姿が特徴で、レーシングスーツの胸部にも必要だった[7]

当初すべての車は、どのカテゴリーに参加したかを示すカテゴリタグで識別されていたが[8]、1975年シーズンの半ば以降、すべての車には、ロゴが組み込まれた長方形のIMSA GTのデカールが必要だった。左側に大きなGTのタグと[9]、ジョー・キャメルのデカールが続いた。

1975年、GTOでのポルシェの優勢に対抗する為に、新しいカテゴリーであるオールアメリカングランドツーリング(AAGT)が導入された。

1981年、ボブ・シャープレーシングチームはルールの抜け穴を突いて日産・プレジデントのV8エンジンを搭載した、日産・280ZX(英語版)を米国内で製作した。だが、新しいGTPカテゴリーが設定されたときに廃止された[10]。TUは1976年に段階的に廃止され、TOは翌年に廃止された。ポルシェ・935 ブルモス・レーシング

ターボチャージャーの使用は1977年シーズン半ばまで許可されなかった。しかし76,77年のGTOタイトルを獲得したアル・ホルバートのAAGT車の、シボレー・モンツァを検査した後、ポルシェのモータースポーツ部門による抗議もあり許可された。1977年以前から、ポルシェのプライベーターは、AAGT車に対して旧型の911カレラRSRで苦戦を強いられた[11]

エンジンサイズは、排気量対最低重量の公式を使用して、公正な競争を決定するための一連のルールを考案したIMSAの職員によって決定された。ターボチャージャーは、回転動力、燃料噴射、および他の多くのエンジン機能と同様に考慮された[12]

1978年から、GTX(FIAグループ5に基づいた、グランドツーリング・エクスペリメンタル)として知られる新しい最上位クラスでは、ポルシェ・935がシリーズを支配した。1970年代の最も成功したドライバーは、1971年、1973年、1974年、1975年、1978年、1979年にチャンピオンシップを獲得したピーター・グレッグだった。1982年、ジョン・ポール・ジュニアが改良されたポルシェ・935でGTPクラスで優勝した後、ツインターボは、使用禁止となった。
GT スペースフレーム時代

1984年、すべてのGT車は、車がどのカテゴリーかを識別するために、大きな正方形のデカールを表示する必要があった。GTU車は、白地に黒のU[13]、GTO車は黒地に白のO文字だった[14]。他に標準のIMSA GTデカールもあった[15]

1980年代の規定の重要な変更の1つは、GTUの排気量2.5Lの制限が3.0Lに引き上げられ、GTOの最大排気量6.0Lの制限が引き続き適用された[12]。3Lの最低重量は1,900 lb (860 kg)。一方、6.0Lの車は2,700 lb (1,200 kg) だった。イコールコンディションにするために、2バルブターボチャージャーの重量は15%増加し、4バルブターボチャージャーの重量は20%増加する必要があった。電子制御燃料噴射が一般的になったが、グラウンド・エフェクト・カーはまだ禁止されていた[12]

ステアリング、ブレーキ、トランスミッション、サスペンションはコンストラクターに任された。より大きく、強力なエンジンは、ホモロゲーション規定の下で許可された[12]。バルブ、ポート、スパークプラグの数は変更することは出来なかった。トヨタ・セリカ T160型 IMSA GTO

AARトヨタチームは、トヨタが米国市場向けに第4世代のセリカを発表し、チームが最初にGTOカテゴリに参入したときに(GTUタイトルを1回も獲得していなかったにもかかわらず)[16]、ルールに関する問題に遭遇した。チームは、IMSAにルールを変更するように説得し、それによって車が元々のドライブトレイン以外で再設計されたシャーシを使用し、レースできるようになるまで、前輪駆動車でレースする必要があるという可能性があった。AARの希望通りに、IMSAはルールを変更し、車は後輪駆動車に改造された[17]。この車の特徴の1つは、サファリラリーで優勝したグループBの前身である、4T-GTEエンジンで、475 hp (354 kW)を発生した[12]。クリス・コード、ウィリー・T・リブス、デニス・アースなどによってドライブされたこのマシンは、1987年日本車初のGTOクラスタイトルを獲得、チームがGTPクラスに移行するまで、GTOクラスで勝利した。他チームもこれに従い、シボレー・ベレッタ(トランザムシリーズ)やマツダ・MX-6 (IMSA GTU)などの注目すべき車を使用した[17]

セリカは、初期のGT派生車から独立した数少ない車の1つだった。フルスペースフレームシャーシで、本格的なレースカーになった。1987年までに、このカテゴリーはファクトリーチームによって支配されるようになり、テストセッションが一般的になり、ルールも彼らを拒否せず、歓迎する様に調整された。フェンダーを広げてトレッドを79インチ (2,000 mm)まで増やすことはできるが、車は生産車の形状を維持する必要があった[12]Hoerr Racing GTO オールズモビルのロビン・マッコール(1987)

ほとんどのチームが取り外し可能で修理が簡単なグラスファイバーを好んだため、ボディの材質に制限は無かった(車の生産時から残るのパネルは、スチール製のルーフだけだった)。

ルールを利用した車では、アウディ・90があった。その高度なクワトロ四輪駆動システムで、車は1989年シーズンを支配する可能性があった。車自体はうまく機能したが、2つのファクトリーチームからの激しい競争に直面した。ラウシュ・レーシングマーキュリー・クーガーXR7とクレイトン・カニンガムレーシングの日産・300ZX(英語版)でこれらが15戦のうちの7勝を挙げた。アウディはシーズン序盤の耐久クラシック(デイトナセブリング)は参戦しなかった。その結果、ハンス・ヨアヒム・スタックがドライブしたが、ドライバー、マニュファクチャラータイトルを逃した。

一連の勝利を記録した他メーカーはマツダだった。マツダ・RX-2RX-3が一定の成功を収めた後、マツダ・RX-7は1979年と1982年から93年まで12年連続でデイトナ24時間レースでGTUクラス優勝した。[18]また、1980年から1987年まで8年間連続でIMSA GTUチャンピオンを獲得した。さらにRX-7は、1990年9月2日に100勝目の勝利を収め、他のどのモデルの車よりも多くのIMSAレースで優勝した[19]3ローター搭載のGTOクラス、最終的には4ローター搭載のGTPクラスにも進出、1995年までにIMSA合計117勝という輝かしい戦績を残した[18]
GTP 時代トヨタ・イーグルMk.III日産・GTP ZX-TGTPのデカール (1986-1993)

1981年、IMSA GTP(グランドツーリングプロトタイプ)が登場し、これは1982年から世界耐久選手権に導入される新しいFIA グループCカーに似ていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:96 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef