III号戦車
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トーションバーとは日本語で「ねじり棒」という意味であり、文字通り金属棒(製造時特殊加工を施す)の復元力を利用したものである。車幅が拡大したことによりトーションバー有効長を確保できたことから、剛性も向上したうえに転輪のストロークも大きく取ることが可能となり、比較的大型の転輪が採用できた。ただし、D型以前の型式では他の懸架方式で設計するなど試行錯誤していた。

なお同方式にも欠点はあり、トーションバーは車台を貫通する大型のものであるため、加工においては精度・技術が要求され、工程・コスト的にも厳しく生産性が低かった。また、車体底面にトーションバーがあるため、脱出ハッチを作ることが事実上不可能であった。(それ故、本車の脱出ハッチは車体側面に設けられたが、側面に開口部を設けるのは防御上不利であり、脱出時に狙い撃ちされる可能性も高まる)

このことから、ポルシェ博士は外装式のボギー型トーションバー・サスペンションを開発し、後期の重戦車・駆逐戦車に採用されている。
機関

マイバッハ社製4ストロークV型12気筒ガソリンを採用した。機関型式は初期型がHL108TR、出力250hp/3,000rpmで、量産型(E型以降)がHL120TRM、出力300hp/3,000rpmである。

機関配置としては、戦闘室後方(車体最後部)に機関室を設け、ドライブシャフトを車体中央に貫通させ駆動輪を前方に置いた。このことにより機関を良好に防護でき、なおかつ機関による陽炎で照準を妨害することがない利点があった。また操縦手を前方寄りに配置できるため、操縦性の向上にも一役買っている。

ただし欠点もあり、先述の通りドライブシャフトが存在することにより車内容積や設計に影響するほか、整備性に悪影響を及ぼした。

この欠点にもかかわらずあえてこの方式を採用したのは、履帯外れ時に有利と考えられていたためであり、前方に駆動輪があることで、前線における履帯外れ修理で駆動輪をウインチ代わりにする際効率が良かった。つまり力があり低速の前進1速で一連の作業ができたのである。これが後輪駆動であると後進を使用もしくは併用せねばならず、その工程にも時間がかかる。
火力

III号戦車の主砲は形式・時期により異なり、以下のようになる。

A型からG前期型(1938年12月?):37mm 46口径砲

G後期型からJ前期型(1940年7月?):50mm 42口径砲

J後期型からM型(1941年12月?):50mm 60口径砲

N型(1942年6月?):75mm 24口径砲

ただ、37mm砲搭載については批判されることがあるが、捉え方によって評価も変わってくる。

まず、当時のドイツ軍所有の戦車で考えた場合、37mm砲搭載型でもII号戦車と比べれば対戦車能力は向上しているため、一概に火力不足とは言い切れず、大戦初期に主力扱いされていたチェコスロバキア製の35(t)38(t)の主砲は37mm砲であり、保有する戦車に比べ火力が不足していたわけではなく、実際、37mm砲搭載型のE型でも、配備時点では充分な対戦車能力を持っていたと言える。

しかしながら、これら(II号戦車、35(t)、38(t))はジャンル的には10トン級の軽戦車であり、(20トン級)中戦車である本車を同等に比較することには無理があるとも言える。スペイン内戦で使用されたT-26軽戦車の45mm砲は例外だが、ポーランドの7TP軽戦車(T-26、7TP共にヴィッカース 6トン戦車のライセンス生産の10トン級)や日本の九五式軽戦車(7トン)も37mm砲を有している。この時点において軽戦車は明らかに火力が防御力を上回っていた状態であり、防御においては小火器を辛うじて防御する状態であった。このことが、軽戦車が火力の強化によって戦場から駆逐された理由でもあった。むしろ、II号戦車は軽戦車のジャンルにおいて攻撃力が低い戦車だったと言える。

結論として、37mm砲の搭載は、II号戦車と比べれば火力強化という結果になったが、中戦車のジャンルとして見た場合、低火力であった。

ただし、37mm砲搭載にも理由がある。

もともと、戦車部隊の関係者は将来の戦闘や(設計時から見て)対戦車能力が高い50mm砲を初期型から搭載することを主張していたが、補給部門は共通化の観点から歩兵が装備していた37mm対戦車砲を搭載することを主張しており、妥協案として初期型では37mm砲を搭載するが後から50mm砲が搭載できるように設計することで決着がついた[1]。この時50mm砲を搭載しなかったことへの批判も少なからず存在するが、その時点では50mm砲はそのものが開発完了していなかったため、物理的に50mm砲が装備できず、さらに完成を待つだけの時間がなかったことや37mm対戦車砲が(設計時点では)ドイツ軍としては最新の対戦車砲であり、本車が設計ないし完成した時点では、充分な威力があると考えている者も多く、実際、当時想定される敵に対しては有効な対戦車能力を持っていたとも言え、補給部門の主張も根拠がないわけではなかった[1]

その後、T-34が登場するとドイツ軍は「T-34ショック」に見舞われ、最新だった37mm対戦車砲は敵をして「ドア・ノッカー」(装甲を貫徹できず、ノック音を響かせるのみであるため)とあだ名されるまでに陥った。もちろんこれは本車にとっても例外ではなく、満を持して50mm砲が搭載されることとなった。[注釈 2]だが、戦争中盤には50mm砲であったとしても、敵戦車に対して不利な場面が多かった。3人乗り砲塔により主砲の発射速度が高いため、火力の不利を補っていた(例えばT-34の76.2mm砲が1発撃つ間に、III号戦車の50mm砲は3発撃つことができた)が、効果は限定的で、特に短砲身(42口径)型は敵戦車と戦闘する場合、苦戦することとなった。

ただし、50mm 60口径砲(5 cm KwK 39)は50mm対戦車砲(5 cm PaK 38)と共通の弾頭で装薬量を増しており、ソ連戦車に対しては荷が重かったが、イギリス戦車に対しては有効であり、ここに至ってやっと戦車らしい働きをすることが出来た。しかし世界的な趨勢からみれば、主力戦車としての役目を終えつつあった。

そのため、75mm 48口径砲の搭載が可能なIV号戦車へと主力の座を譲り、それに伴って余剰となった75mm 24口径砲を搭載することで火力支援任務への転用が可能ではないかと言われるようになった。これを受けて同砲の搭載が検討され試験を受け、結果、搭載は可能であるとされたため、最終型として主砲以外はL型やM型と変わらない75mm 24口径砲搭載のN型が製造され、火力支援へと回されていくことになった。

その頃には75mm 24口径砲は初速の遅さゆえに徹甲弾を用いての対戦車戦闘で通用するものではなくなっていたが、成形炸薬弾を用いれば50mm 60口径砲よりも優れた貫徹能力があり、一応対戦車戦闘は可能であった。ただし24口径という性質上、初速の遅さによる捕捉率は当然問題となっているし、そもそもN型は積極的に対戦車運用を行う設計思想ではない。
防御力

戦車の性能について火力の重要性は当然であるが、装甲についても無視することはできない。そして装甲は車重と関係し車重は発動機(エンジン)出力と関係する。発動機の出力不足はナチス・ドイツ軍の重戦車の弱点となったがそれは急激な重装甲化が原因であった。その遍歴はこの戦車でも見ることができる。

当戦車も当時のドイツ戦車と同じように入念な試作が行われたが、開戦当時、ナチス・ドイツ軍は戦車の数量が少ない状態であり本車の試作品も作戦に投入されたが、曲がりなりにも当時最新型であるにもかかわらず、試作戦車の多くが失われた。構造的に中戦車としての性能が求められていたにもかかわらずE型の量産に至るまでの試作戦車は軽戦車レベルの装甲しか施されていなかったことが原因である。

E型で正式採用されると、その後の量産の過程において様々な装甲の増加が試みられた。

1943年頃から、砲塔周囲と車体側面に、対戦車銃対策として、シュルツェンという5?8 mm厚の薄い軟鋼板が追加され、これは装甲厚の薄い車体下部側面を覆ったことから、サイドスカートの役割も果たした。第一次世界大戦?戦間期の戦車における、履帯側面の転輪やサスペンションを覆い防護する装甲板(懸架框、けんかきょう)の復活と言えないこともない。


車体前面の装甲厚の変遷

A/B/C/D型 - 14.5 mm(1枚板)

E/F/G型 - 30 mm(1枚板)

H型 - 60 mm(30 mm + 増加装甲30 mmの2枚重ね)

J型 - 50 mm(1枚板。厚さは減ったが、1枚板の方が2枚重ねより、強度が高い)

L/M/N型 - 70 mm(50 mm + 増加装甲20 mmの2枚重ね)

歴史1939年ポーランド侵攻でのIII号戦車。8つの転輪が見られる東部戦線でのIII号戦車(1943):追加装甲(シェルツェン)や予備履帯で防御力不足を補っている

ドイツ装甲師団の中核戦力として構想された戦車であったが、結果的に見れば、第二次世界大戦初期から苦難の日々を歩むこととなった。軍の要求する速度を実現するため様々なサスペンション方式を検討することとなり、初期には生産が遅々として進まず、第二次世界大戦の開戦時は必要数が揃わなかった[2]。それでも、III号戦車は開戦時におけるドイツ軍戦車部隊の主力として扱われていたが、事実上の主力はII号戦車チェコスロバキア製のLT-35LT-38であった。

対フランス戦が始まるころには数も増え、北アフリカ戦独ソ戦の頃には名実ともに戦車部隊の主力戦車となった。しかし、フランス戦での戦闘にて重装甲のイギリス軍歩兵戦車マチルダII歩兵戦車は30トン級の装甲)を撃破することができず、敵の対戦車砲で容易に破壊されるなどの問題を指摘されていた。

独ソ戦が始まると、37mm砲搭載型のIII号はソ連赤軍T-34(30トン級)やKV-1(40トン級)に対してまったく無力であることが明らかになった。そのため、50mm砲搭載型が戦場に投入されたが、対ソ戦には50mm砲搭載型でも非力な面が目立った。

北アフリカ戦線ではクルセーダー巡航戦車のような装甲の薄い戦車が多数をしめているイギリス戦車側の事情から有利な撃破が可能であり、特にJ型以降の型であれば充分な対戦車能力を発揮していた。だが、北アフリカにアメリカのレンドリース・参戦によってM3グラント(25トン級)、M4シャーマン(30トン級)が登場すると厳しい戦いを強いられるようになった。

本車の戦闘能力が、戦況が要求する水準に達した時期が短かったため、対戦車能力は不十分とされることが多かった。また、長砲身の75mm砲を載せるには砲塔ターレットリングの直径が小さく不可能だったため、改良も限界に達した。大戦中期には、IV号戦車に主力戦車の座を譲り、続くV号戦車パンターの実用化と共に生産は終了した。III号戦車はのちのナチス・ドイツの重戦車・主力戦車の基礎になったことからも、後の戦車開発技術に与えた影響は大きかったが、一方で基本設計時点での軽さ(基礎は15トン級)による発展性の制限により、生産と改良が実戦で要求された水準におよばなかったことから、主力戦車としては短命であった。

時間的に余裕のある時期に入念に作られたサスペンションは、後に用いられるような複雑な物ではなく、重量とのバランスが優れており、車台はアルケット社で生産される突撃砲(後にIII号突撃砲と呼称)に転用され、敗戦直前まで生産が続けられた。その結果、突撃砲は製造数においてナチス・ドイツの装甲戦闘車両としては最多となっている。
形式
III号戦車A型
Panzerkampfwagen III Ausf A, Sd.Kfz.141A型のサスペンションは、以後の型に比べ大型な片側5つの転輪を、コイルスプリングで独立懸架するクリスティー式に近い独自の構造を持つ。しかし車台高のあるクリスティー戦車やBT系、コイルスプリングを斜めに配置しサスペンションのストローク長を稼いでいたT-34や英国製
巡航戦車と異なり、低めの車台に垂直に配置されたスプリングのストローク長が短くすぐに底突きした他、そもそも乗り心地が悪かった。


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