III号戦車
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "III号戦車" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年9月)

III号戦車
性能諸元
全長6.41 m
車体長5.56 m
全幅2.95 m
全高2.51 m
重量22.7 t
懸架方式トーションバー方式(D/Bではリーフスプリング)
速度40 km/h(整地
19 km/h(不整地
行動距離155 km
主砲A-F:46.5口径3.7 cm KwK 36(120発)
G-J:42口径5 cm KwK 38(99発)
L-M:60口径5 cm KwK 39(84発)
N:24口径7.5 cm KwK 37(56?64発)
副武装7.92mm機関銃MG34 ×2
(3,750?4,400発)
装甲
砲塔


前面57 mm

側・後面30 mm

車体


前面50+20 mm

側面30 mm

後面50 mm

エンジンマイバッハ
HL108TR(初期型)
HL 120 TRM(量産型)
4ストロークV型12気筒ガソリン
初期型 250 馬力
量産型 300 馬力 (221kW)
乗員5 名
(車長、砲手、装填手、操縦手、機銃手兼通信手)
テンプレートを表示

III号戦車(さんごうせんしゃ、Panzerkampfwagen III、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ドライ)は、第二次世界大戦期におけるドイツの20トン級中戦車である。当初は生産数が非常に少なかったが徐々に数を増やし、大戦中盤(1941 - 1942年頃)までドイツ戦車隊の主力であった。制式番号は Sd.Kfz.141、Sd.Kfz.141/1、Sd.Kfz.141/2。
概要

ドイツ国防軍の開発した戦車であり、来るべき戦車戦術に合致する主力戦車を目指した中戦車である。訓練用のI号戦車等による演習・運用ノウハウや、スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)によってもたらされた戦訓により、現代戦車の基礎を形作るさまざまな新基軸と、当時の先進技術が投入された戦車となっている。

運用構想としては、新機軸を採用して設計されたIII号が主力を務め、既に確立された技術のみで手堅く設計されたIV号戦車がIII号などの主力の支援を務めるという計画であった。1934年、陸軍はこの構想に基づき、有力メーカー各社にいくつかの条件を示し、戦車を発注した。

15トン程度というのは当時の欧州における輸送の限界を考慮したものであり、陸軍としては最大でも20トン未満の中戦車を目指していたが、最終的には20トンを超え、20トン前半の中戦車として完成した。当時の20トン級中戦車のなかではバランスがとれた戦車であり、総合性能ではトップクラスであった。

ところが、敵戦車に30トン級中戦車(ソビエトT-34アメリカM4中戦車)が登場すると火力不足に悩まされ、対峙する戦車によっては苦戦を強いられた。さらに重戦車に対しては完全に歯が立たなかった。また、全期間において防御力が不十分であった。このような不利な状況下で、互角かそれ以上の戦闘が行えたのは、連携・指揮を下支えするさまざまな装備や、計算された車内設計、またドイツ軍の高練度乗員による戦術の功績が大きい。

30トン級中戦車であるソ連赤軍T-34や米軍のM4と比較して開発時期が数年早く、その時点では有効かつ革新的な設計であったものの、新機軸をふんだんに盛り込んだことで開発・生産が遅れ、初期の電撃戦には間に合わなかった。これが連合軍側に戦術・技術研究の題材を提供しつつ対抗戦車を開発する隙を与える結果となったため、本格的に運用を開始するころには新機軸のアドバンテージも覆されてしまい、主力戦車として運用できた期間は短かった。

大戦中期には敵戦車の発展がさらに進んだ結果、改良も限界に達し、ほぼ完全に任務を果たせなくなり、結果、ドイツはT-34やシャーマンに対抗できるV号戦車を製造し、それに取って代わられたため、生産終了となった。
設計

1935年ドイツ陸軍兵器局第6課は、MAN(アウクスブルク=ニュルンベルク機械工場)ダイムラー・ベンツ社、ラインメタル社、クルップ社、ヘンシェル社に対し、新型主力戦車「Z.W.」の設計仕様書を提示、5社は設計案を提出したが、ほぼ同時期に、新型火力支援戦車「B.W.」の開発計画もスタートしたため、ラインメタル社はそちらに専念することになり、残る4社で競争試作を行うことになった。試作車として完成したのはダイムラー・ベンツ社と、クルップ社の2社の設計案のみであった。ダイムラー・ベンツ社の試作車は、1935年末に完成した。

1936年に行われた、ダイムラー・ベンツ社とクルップ社の、試作車の性能比較試験の結果、最終的にダイムラー・ベンツ社が、「Z.W.」の開発・生産を担当することになった。ただし、ダイムラー・ベンツ社が製作するのは「Z.W.」の車体だけで、砲塔の製作についてはクルップ社が担当することになった。

なお、この時敗れたクルップ社の試作車は、拡大再設計されて、試作車「B.W.I(K)」(後のIV号戦車の原型)となった。

採用決定後、ダイムラー・ベンツ社では、他社が開発した試作車の長所も採り入れて、「Z.W.」の最初の生産型である「1/ZW」を設計し、1939年9月27日、「1/ZW」は「III号戦車A型」の制式呼称を与えられた。

III号戦車は当時の先進技術や新機軸を盛り込んで設計されていた。
車体構造
乗員配置・車体設計

本車の最大の特徴は、乗員を5名とし、かつそれぞれの乗員をほぼ専業制(通信・前方機銃手を除く)にしたことで、単砲塔の通常型戦車としては世界初であった。

砲塔を持つ戦車の基礎となったルノー FT-17 軽戦車(1917年・フランス)は車体が小型であったうえに小型砲塔を採用しているため、乗員が2名となっており、車長が複数の役割を担っていた。その後の戦車の基礎となったヴィッカース 6トン戦車(1928年・イギリス)の乗員は3名であったが、いずれにしても複業する乗員が存在し、少人数の乗員は戦闘に悪影響かつ不利な要因となっていた(多砲塔戦車のような大型戦車を除く)。その後、戦車の乗員は3名もしくは4名が一般的になり、ドイツ戦車も例に漏れずI号戦車の乗員は2名、II号戦車は3名で、5名乗員を明確に指向した戦車は、本車登場まで世界的にも存在しなかった。

※実はイギリスの1920?30年代の制式戦車である、ヴィッカース中戦車 Mk.I/IIが、乗員5名で、車長専任の、3人乗り(車長・砲手・装填手)砲塔を採用しているので、これは誤りである。ただ、3人乗り砲塔が(当時はまだ)一般的ではなかったのも間違いない。

乗員配置については、進行方向に対し前方左側車体内に操縦手、その右側に通信兼前方機銃手をそれぞれ置き、砲塔には戦車長、砲手、装填手を置いた。乗員を従来より増やせたのは、1人乗りか2人乗りの小型砲塔が主流だった時代において3人乗りの大型砲塔を採用し、車幅・砲塔リングの拡大化を含めて車内体積が増えたからで、このような設計としたのは専業制を実現するためである。これにより役割が明確化・細分化され乗員の負担が少なくなり、仕事効率及びチームとしての戦闘力が向上した。特に戦車長は指揮と周辺警戒に専念できるようになったので、戦車同士の対決に際して有利になった。ただし、砲塔バスケットは採用されておらず、装填手は砲塔の回転に合わせて自分で動かなくてはならなかった。また、III号戦車の砲塔は、手動機構(旋回ハンドル)による人力旋回方式であった。

また当時、送信可能な無線装置は指揮戦車のみに搭載することが多く、それ以外の戦車はお互い目視による連携を取っており、この際ハッチを解放しない場合、外部を視察するためのスリット、クラッペ、バイザー等の開口部が防御上の弱点となるため小さく、視野は極めて限られたものとなるため、戦闘において支障を来たした。これを解決すべく送受信可能な無線装置が本車から標準化され、前方機銃手に通信手を兼ねさせた。無線機での相互連絡により効率的な連携を取ることができるようになり、それを持たない相手に対して圧倒的優位に立つ事を可能とした。

さらに、戦車長が指揮に専念できることは極めて重要だが、コマンダーズ・キューポラによる360°視界の確保、タコホーン(咽頭マイク[注釈 1]式車内電話)による乗員間意思疎通の明確化、無線装置による指揮通信系統の確立等、そのための装備が充実していたことは特筆すべきであろう。これにより個々の戦車のみならず部隊としても統率がなされていた。戦車長による円滑な指揮を実現するという設計思想は戦車史上初であり、本車が特に対戦車戦闘を重視していたことがうかがえる。

これこそが電撃戦を支え、機甲師団という新基軸を有効なものとし、ドイツ快進撃の秘訣となり、火力装甲ともに優れるT-34などの戦車と遭遇しても対抗することが可能な下地となったのである。
サスペンション

サスペンションについては、A型は縦置きコイルスプリング・サスペンション、B?D型はリーフスプリング・サスペンション、量産型のE型からトーションバー・サスペンションを採用した。これはのちの重量級戦車でも採用される優秀なもので、これもまた戦車による機動戦闘、特に不整地における機動を高い水準で実現するための設計である。

トーションバーとは日本語で「ねじり棒」という意味であり、文字通り金属棒(製造時特殊加工を施す)の復元力を利用したものである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef