I号戦車
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小型トラクターは豆戦車相当であるがゆえに、軽戦車である軽トラクター(9 t程度)と並行開発がされたのであって、両車はそもそもカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)のである。(フロントエンジン・リアドライブ方式の)小型トラクターは、軽トラクターを補完する、軽トラクターの小型化版として開発されていたと考えるべきであろう。故に、(フロントエンジン・リアドライブ方式の)小型トラクターは、豆戦車ではあるが、カーデン・ロイド系ではない。

また、I号戦車を軽戦車と捉えると、軽戦車であるII号戦車とカテゴリーが重複してしまうが、I号戦車の本質を豆戦車(+α)と捉え、II号戦車は開発中止となった軽トラクターの代替(そのポジション・ニッチを埋めるもの)だと考えれば、この両車もカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)わけである。

I号戦車は豆戦車(小型トラクター、クライネトラクトーア)から発展した、3トン級豆戦車と6トン級軽戦車の中間的存在である。そもそも、I号戦車が直接参考としたイギリスの軽トラクターの、その基となったヴィッカース Mk.I 軽戦車自体が、カーデン・ロイド豆戦車から発展したものである。I号戦車の位置付けを不等号で表すと以下のようになる。II号戦車≧ヨーロッパ各国の6トン戦車系の軽戦車>6トン戦車双砲塔機銃装備型≧I号戦車≧ヴィッカース Mk.I 軽戦車>ヨーロッパ各国のカーデン・ロイド系の3トン級豆戦車
ドイツ版3トン級豆戦車「クライネトラクトーア」の開発

1930年2月14日、装甲車両の開発を担当する陸軍兵器局第6課は、軽トラクターより小型で製造コストの安い豆戦車を、「小型トラクター」(Kleinetraktor、クライネトラクトーア)の秘匿呼称で開発することを決定し、エッセンのクルップ社に対し開発を命じ、クルップ社ではエーリヒ・ヴォエルフェルト(Erich Wolfert)工学博士を中心に小型トラクターの設計を開始した。

1930年は小型トラクターの仕様の議論に費やされた。当初の仕様では、重量は3 t、60馬力のエンジンを搭載、2 cm機関砲(当時のドイツでは主武装の口径をmmではなくcmで表した)で武装する計画であった。

クルップ社は、1931年4月30日に砲塔の基本仕様書を、5月22日に車体の基本仕様書を、7月28日に戦闘室の基本仕様書を、陸軍兵器局第6課に提出した。

1931年6月24日に完成した小型トラクターのモックアップは、後のI号戦車とは著しく異なっていた。フロントエンジン・リアドライブ方式で(トランスミッションも前方配置)、全長は3460 mm、幅は1820 mm、重量は3.5 t(仕様書)、車体の装甲厚(仕様書)は、前/側面が13 mm、後面が10 mm、上/下面が6 mm、60馬力のクルップ社製水平対向4気筒空冷ガソリンエンジンで45 km/h(仕様書)、路上航続距離200 km(仕様書)。左右30度ずつの射角の2 cm機関砲はケースメイト前面右側に装備された。乗員は、車体後部の戦闘室に、左側前方に操縦手、右側後方に車長兼砲手の、2名であった。足回りは軽トラクターに似ていた。前後に長いことを除けば、後のポーランドTKS 20 mm機関砲搭載型に似ていたと想像される。

※蛇足だが、この小型トラクターのスペックは、後のヴィーゼル1 兵器運搬車(20 mm機関砲搭載型)と近似である。

しかし、L.S.K.と軽トラクターの試験により、フロントエンジン・リアドライブ方式の欠陥が実証され、1931年9月18日、陸軍兵器局第6課のハインリヒ・エルンスト・クニープカンプにより、フロントエンジン・リアドライブ方式での小型トラクターの開発は中止された。同日、リアエンジン・フロントドライブ方式での新しい小型トラクターの仕様が承認された。ハインリヒ・エルンスト・クニープカンプ(Heinrich Ernst Kniepkamp、1895年3月5日-1977年7月30日)

この頃に、軽トラクターの発注が取り消されたのも、同様の理由だと考えられる。また、駆動方式の問題だけでなく、あたかも、戦艦ドレッドノートの登場のごとく、革新的なカーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車の登場により、軽トラクターの設計(特に足回り。路上最高速度もわずか30 km/hと、1930年代の軽戦車としては、もはや遅過ぎる)が瞬く間に、そして既に、時代遅れになってしまっていたことも大きな原因であろう。

ドイツは、もちろんカーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車のことは知っていたが、自国技術のみで、L.S.K.=軽自走砲や、軽トラクター=軽戦車や、小型トラクター=豆戦車を開発しようとしたものの、足回りの開発が巧くいかず、自国技術を疑っていたクニープカンプは、イギリスからの技術導入を早くから提案していた。数年間に及ぶ自国技術のみでの開発の試みが挫折して、ようやく開発方針が変更されたわけである。
5トン級「クライネトラクトーア?I号戦車A型」の開発

1931年、交通兵監部総監のオズヴァルト・ルッツ(ドイツ語版、英語版)や、同兵監部主席参謀のハインツ・グデーリアンらによって将来の陸軍機械化構想がまとめられた。この構想では15トン級の主力戦車や、20トン級の支援戦車の2種が戦力の柱と位置づけられていたが、その開発にはなお長い時間が必要になると予想されたため、それまでの「繋ぎ」として、訓練用、生産技術習得を兼ね、軽戦車の開発が行われることとなった。そこで、クルップ社で開発中であった、小型トラクターに白羽の矢が立った。

クニープカンプのかねてよりの提案により、開発の参考用として、イギリスヴィッカース・アームストロング社に、同社製軽戦車(ホルストマン・サスペンション導入前の、ヴィッカース Mk.I 軽戦車)と類似の足回りを持つ、3輌の軽トラクターが、1輌目は1931年11月10日、2輌目は1932年9月12日、3輌目は同年10月11日に発注され、シリアルナンバー VAE 393・406・407 の各車が輸入された。1932年1月、VAE 393はクンマースドルフ試験場に到着した。

1932年5月5日、クルップ社は陸軍兵器局第6課に、新しい小型トラクターの基本仕様書を提出し、試作車1輌の製造契約が結ばれた。

試作1号車のシャーシが完成する前の1932年6月22日、3トン級クライネトラクトーアの物と類似の、ケースメイト(砲郭、固定戦闘室)の前面右側に2 cm機関砲を限定旋回式に備えた、上部構造物のアイディアが提示された。

[1]

(上)ペーパープランのみに終わった、2 cm機関砲搭載ケースメイト方式5トン級クライネトラクトーア

しかし、ルッツが、ケースメイト方式よりも砲塔方式を望んだので、1932年6月28日に、2挺の機関銃を備えた旋回砲塔のアイディアが新たに提示され、それが採用された。

1932年7月29日にクルップ社が完成させた、新しい小型トラクターの試作車台(試作1号車)は、イギリス製車両の設計(特にリーフスプリング・サスペンション)の影響を色濃く受け継いだものとなった。それは、イギリスの技術が混在した、小さなL.S.K.のような外見であった。新しい小型トラクター(クライネトラクトーア)の最初の試作車台。上部支持輪が片側2個

ヴィッカース軽戦車系の足回りを模倣した新しい小型トラクターは、必然的にシャーシ(車台)も、足回りに適合したサイズとなった。

足回りに規定されることで、新しい小型トラクターの車体サイズは、それまでの豆戦車サイズから、軽戦車サイズへと、サイズアップすることになった。

具体例で示すと、ヴィッカース Mk.I 軽戦車の全長は4.01 m、I号戦車A型の全長は4.02 mである。この近似は偶然ではなく、Mk.Iの足回り(片側)の配置は、前方から、起動輪-転輪2個-転輪2個-誘導輪、の計6個(上部支持輪除く)なのに対し、I号戦車A型は、起動輪-独立制衝転輪1個-転輪2個-転輪1個-接地誘導輪、の計6個(同)と、(配置型式は異なれど)同数である。故に、各車輪の大きさや間隔が両車で同じくらいだとすると、シャーシの全長も同じくらいになるのは、当然のことであろう。

この車体サイズの拡大は、自走砲車台としての改造の余地を生み出し、I号戦車の兵器としての後々の延命を可能とした。

1932年8月15日から、クンマースドルフ試験場にて、小型トラクターの試作1号車の走行試験が開始された。

同年9月28日、小型トラクターの試作1号車と輸入軽トラクターとの比較走行試験が実施され、小型トラクターは路上最高速度40 km/hを発揮し、「カーデン・ロイドよりも機動性が優れている」という評価を受けた。

当初、小型トラクター(クライネトラクトーア)は、多目的車両として計画され、同じシャーシを流用して、前線観測車、砲兵トラクター、貨物運搬車などのバリエーションが開発される予定であった。しかし、1932年10月12日、ルッツは、少なくとも5両の武装を備えたクライネトラクトーアをすぐに用意することを要求し、主目的である戦車以外のバリエーションは、(当面)計画中止となった。

試験の結果を基に、陸軍兵器局第6課は、1932年9月?1933年2月の間に、クルップ社に様々な改良を要求した。

1933年3月20日、陸軍兵器局第6課は、軟鋼製の増加試作車として、クルップ社に試作第2号車の、続いて同年5月10日、試作第3?6号車の、製造を発注した。

1933年7月1日、陸軍兵器局第6課から、主にクルップ社の他、技術習得のために、グルゾン製作所(クルップ社の子会社)、ヘンシェル社、MAN社、ラインメタル社、ダイムラー・ベンツ社の5社を含む、計6社に対し、小型トラクター150輌(1ゼーリエ)(Serie=英語でのシリーズ(series)にあたる)の生産が発注され、クルップ社が135両、他の5社が各3両ずつ、担当することになった。

小型トラクターの砲塔と戦闘室の設計は、クルップ社とダイムラー・ベンツ社の競作となり、ダイムラー・ベンツ社の設計案が採用され、2ゼーリエから搭載されることになった。

1933年12月から、車体上部構造物が無い車台のみの訓練用車輌(Fahrschulwagen、ファールシュルヴァグン)(1ゼーリエ)の生産が始まり、続いて1934年7月から、戦闘室・砲塔を持つ戦車型(2ゼーリエ)の生産が開始された。なお、「1ゼーリエ」は「I号戦車A型」には含まれない。また、「2ゼーリエ」=「I号戦車A型」の生産は、上記5社によって行われ、開発メーカーであるクルップ社は加わっていなかった。

ヴェルサイユ条約によってドイツは戦車の生産を禁じられていたため、連合国に戦車であることを察知されないように、秘匿のため、「農業用トラクター」(Landwirtschaftlicher Schlepper、ラントヴィルトシャフトリッヒャー シュレッパー、略号:La.S.)の偽装名称が、生産期間中は使用され続けた。

当初、1935年8月頃には、「Vs.Kfz.617」(実験車輌617)の実験車輌番号とともに、 「マシーネンゲヴェーア パンツァーヴァグン」(Maschinengewehr Panzerwagen、機関銃装甲車)の公式名称を与えられたが、同年10月に「マシーネンゲヴェーア カンプ(フ)ヴァグン」、同年11月に「マシーネンゲヴェーア パンツァーカンプ(フ)ヴァグン」と改称され、1936年4月の再軍備宣言後に、「Sd.Kfz.101」の特殊車輌番号とともに、「I号戦車A型」(Panzerkampfwagen I Ausf. A、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク アー)の制式名称が与えられた。

※ドイツ語の「Punkt」(プンクト)は「.」(点、ドット)を意味するが、繋げて読むと、前後の「p、プ」と「t、ト」をほとんど発音しないので、「ウンク」と聞こえる。

1936年6月までに、818輌のI号戦車A型が生産された。
I号戦車A型の構成I号戦車A型の各面装甲厚

I号戦車A型は、開発メーカーであるクルップ社製トラック用の改良型である空冷水平対向エンジン(57馬力)を搭載。

車体構造は当時の主流であったリベット接合ではなく、溶接で組み上げられていた。

MG13k機関銃(I号戦車の初期生産型は銃身長が短縮されていないMG13機関銃を装備)を左右並列に連装で装備する旋回砲塔(砲は搭載されてないので、正確には銃塔である)は戦闘室の右寄りに搭載され、戦闘室左側に乗員乗降用の水平二分割式のハッチを設けていた。砲塔(銃塔)前面には左右並列に上開き式のバイザーがあった。

砲塔(銃塔)内部には、砲塔後部下端から吊り下げられた車長兼機銃手用の座席が設けられていた。


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