Honda_FC
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この項目では、静岡県浜松市に本拠を置くサッカークラブについて説明しています。

埼玉県狭山市で活動していたサッカークラブについては「ホンダルミノッソ狭山FC」をご覧ください。

宮崎県宮崎市に本拠を置くサッカークラブについては「ホンダロックSC」をご覧ください。

本田技研工業フットボールクラブ
原語表記本田技研工業株式会社フットボールクラブ
呼称Honda FC
クラブカラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  白
  赤
創設年1971年
所属リーグ日本フットボールリーグ
クラブライセンス(未承認)
ホームタウン静岡県浜松市
ホームスタジアムHonda都田サッカー場
収容人数2,500
代表者鈴木多佳生
監督小林秀多
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

本田技研工業株式会社フットボールクラブ(ほんだぎけんこうぎょうかぶしきがいしゃフットボールクラブ)は、日本静岡県浜松市を本拠地とする、日本フットボールリーグ(JFL)に所属する社会人サッカークラブ。呼称は「Honda FC」(ホンダ エフシー)で、これ以降は基本的に呼称で表記する。
概要

1971年、本田技研工業(以下「ホンダ」)の創業事業所でもある浜松製作所(現・トランスミッション製造部、浜松市中央区)に置かれた浜友会サッカー部(後述)を母体として本田技研工業サッカー部(以下「ホンダサッカー部」)として創部[1] し、現在もなお本田技研工業直営の実業団クラブとして存在する。ホンダ本社のサッカー部という位置づけであるが、直接的な運営にはトランスミッション製造部内に設立された「Honda FC 事務局」のスタッフが関わっており、チーム代表もトランスミッション製造部長が務めている。実業団ながら地域密着型クラブを標榜し、下部組織も有している[2]

過去に2度日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)参入の構想があったがいずれも実現しておらず(後述)、長きにわたってアマチュアの最高位カテゴリであるJFLでJリーグ加盟を目指すクラブを相手に互角以上の戦いを繰り広げることから、「(Jへの)門番」の異名を取る[3][4]

ホームスタジアム・練習場は同市浜名区都田町にあるホンダ所有のホンダ都田サッカー場

チームのシンボルマークは、浜松の「H」とHondaの「H」が重なり合い、当時の浜松市鳥であるツバメと雄大な遠州灘の波を型どったデザイン[2]マスコットキャラクターはチームのシンボルマークでもあるツバメをモチーフとした「パッサーロ(Passaro)」[2]
トップチーム在籍選手の扱い

トップチームの選手は、試合の無い日は、午前中はホンダの正社員としてトランスミッション製造部に勤務、午後からはトレーニングを行うという生活を送っている。

一方で、プロ契約の形態を取らないものの、プロサッカー選手としての雇用関係を結んでいる選手もいるというが、クラブからは公言されていない。これについては、JFL事務局長(当時)の加藤桂三が時代の2014年に受けたインタビューで、古橋達弥宇留野純との契約形態について「日本協会の(プロサッカー選手)統一契約じゃないんだけども、社員選手というか専門契約っていう感じで、カテゴリー的に言えばプロなんですよ」と説明している[5]。2020年シーズンではプロクラブでの所属歴のある古橋達弥、大町将梧山藤健太と、札幌からの期限付き移籍で加入した中村桐耶が総務課に籍を置いていることがオフィシャルガイドブックにて確認できる[6]
歴史
創設の経緯

ホンダの各事業所にはそれまでも同好の士を集めたサッカー部は活動していた[1]。社員に共通の話題を提供し、社員の意識を強化を図り、士気を高めるという目的でいえば、埼玉製作所の野球部(現Honda硬式野球部)や、鈴鹿製作所の野球部(現Honda鈴鹿硬式野球部)が既に実績を挙げており、浜松製作所でも当初、野球部をという声も出たが、既に埼玉と鈴鹿に野球部があること、そして何よりも静岡という土壌を考え、サッカー部創設が決定した[1]。まず監督・保崎昌訓、主将・望月修司の浜友会のメンバーを中心に、1971年春新入社の関東大学リーグ経験者を大量に加え、それまで浜友会が所属していた静岡県リーグ2部西部リーグからスタートを切った[1]。翌1972年には、名古屋相互銀行(名相銀)の中心選手だった桑原勝義が、日本サッカー協会の幹部・長沼健に口説かれ、銀行職を捨てて郷里のチームであるホンダサッカー部 に加入[1]。桑原は翌1973年にプレイングマネージャーとなり、桑原を中心にチームは強化された[1]
本田技研工業サッカー部 (1971年-2001年)
創設 - JSL時代
1971年に創部。
1972年静岡県リーグに加盟。1973年には東海社会人サッカーリーグ1975年には日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格[1]1981年には同1部に昇格し、以降1992年に終了するまで、トップカテゴリに居続けた。なお1989年に開催された第1回フットサル世界選手権(現:FIFAフットサルワールドカップ)に出場した日本代表は、ホンダサッカー部の選手で構成されていた。90年代初頭、国内のトップカテゴリがJSLからJリーグへ移行する際、本拠地である浜松市内に第一種の競技場がなく、行政の協力も期待できなかったことから、誘致要請のあった埼玉県浦和市(現・さいたま市)に本拠地を移転し、本田技研工業狭山サッカー部と統合して浦和ホンダウィンズとしてJリーグ(オリジナル10)へ参加することが検討された。しかし、チーム関係者の間には「浜松を本拠にJリーグへ参戦したい」とする意向が根強く、結論が出ないまま91年にJリーグへの初年度参加見送りを発表した。当時は国内経済の悪化からホンダ本社はカーレースF1からの撤退を表明していたため、サッカー部のプロ化見送りに関しても、F1同様に「本業主義のため」という論理付けがされた。鹿島アントラーズへ監督の宮本征勝(1990年にホンダサッカー部監督退任)、ヘッドコーチの関塚隆(1991年に現役引退→早稲田大学ア式蹴球部監督)、黒崎久志長谷川祥之本田泰人内藤就行入井和久千葉修が移籍し、読売サッカークラブへ同ジュニアユース出身北澤豪や同クラブを前身としたヴェルディ川崎へは石川康などが移籍した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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