その他の用法については「ホーヤ (曖昧さ回避)」、「ホヤ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
HOYA株式会社
HOYA Corporation
HOYA本社社屋
種類株式会社
機関設計指名委員会等設置会社[1]
市場情報東証プライム 7741
HOYA株式会社(ホーヤ、英: HOYA Corporation)は、日本の光学機器・ガラスメーカー。本社を東京都新宿区に置く。
三水会とその後身社長会である水曜会およびみどり会の会員企業であり三和グループに属しているが[2][3]、ペンタックスを合併してからは第一勧銀グループにも属している。日経平均株価、TOPIX Core30およびJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ[4][5][6]。 マスクブランクス・半導体素子製造用フォトマスクなどの半導体部門、HDDプラッタなどのディスク部門、メガネやコンタクトレンズなどのアイケア部門、眼科医療用の眼内レンズ、内視鏡などのメディカル部門、光学レンズなどの光学部門、情報システム・アプリケーションサービスプロバイダ・カスタマーソリューションなどのサービス部門、などの事業部門を持つ。眼鏡部門の市場占有率は日本ではトップクラスであるが、日本国外における占有率は高くはない。半導体製造用のマスクブランクス、HDD用のガラス基板事業における世界市場占有率はいずれも70%を超える。 社名は、創業の地である保谷市(現・西東京市)に由来する。創業時の社屋は現存せず、本社は新宿区中落合を経て西新宿へ移転している。 第二次世界大戦中に創業した軍需向けレンズなどの光学ガラス生産が終戦で行き詰まり、戦後は江戸切子職人他の人材を集め高級硝子食器の生産へ参入する。GHQ向けの受注を機に、海外向けを含むクリスタルガラス食器・シャンデリア生産へ拡大して基礎を確立する。 その後、ドッジラインやオイルショックなどの経済危機を経て、眼鏡レンズ、さらに半導体フォトマスク、コンタクトレンズ、HDDなどの生産へと進出。多角化戦略の結果、各部門でトップシェアを誇るなど、日本を代表する精密機器・ガラス企業となる。
概要
歴史
沿革
1941年(昭和16年)11月 - 愛知県出身の山中正一
1944年(昭和19年)8月 - 資本金120万円の株式会社に改組。商号を株式会社東洋光学硝子製造所に変更。
1945年(昭和20年)10月 - クリスタルガラス食器製造開始。
1947年(昭和22年)8月 - 商号を株式会社保谷クリスタル硝子製造所に変更。
1952年(昭和27年)2月 - 光学ガラスBK7製造再開。
1960年(昭和35年)11月 - 昭和工場(東京都昭島市、現在の昭島工場)を新設。保谷光学工業株式会社、山中光学工業株式会社および保谷光学硝子販売株式会社を合併し、商号を株式会社保谷硝子に変更。
1961年(昭和36年)10月 - 東京証券取引所市場第二部へ上場。
1962年(昭和37年)
5月 - メガネ用レンズ製造開始。
10月 - 名古屋証券取引所市場第二部へ上場。
1963年(昭和38年)5月 - 武蔵工場を埼玉県入間郡武蔵町(現・入間市)に新設。
1967年(昭和42年)4月 - 累進焦点メガネレンズを発売。
1972年(昭和47年)12月 - ソフトコンタクトレンズ製造開始。
1973年(昭和48年)2月 - 東京証券取引所および名古屋証券取引所の市場第一部へ指定替え。
1974年(昭和49年)1月 - 長坂工場を山梨県北巨摩郡長坂町(現・北杜市)に新設し、ICマスクサブストレート製造開始。HOYAオンラインシステム(メガネレンズの受発注)を発表。
1982年(昭和57年)10月 - 子会社の株式会社保谷電子を合併。
1983年(昭和58年)1月 - 八王子工場を東京都八王子市に新設し、ICフォトマスク製造開始。
1984年(昭和59年)
8月 - 新本社ビルを東京都新宿区中落合に竣工。
10月 - 子会社の株式会社保谷レンズおよび株式会社保谷クリスタルを吸収合併し、商号をホーヤ株式会社に変更。
1985年(昭和60年)4月 - 児玉開発研究所を埼玉県児玉郡児玉町(現・本庄市)に新設。
1986年(昭和62年)10月 - R&Dを東京都昭島市にセンター竣工。
1987年(昭和63年)