H.J.Timperley
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ハロルド・J・ティンパーリ(Harold John Timperley、中国表記:田伯烈、1898年 - 1954年)は、オーストラリアバンバリー出身のジャーナリスト。中国国民党国際宣伝処の顧問を務めた[1][2]
略歴

西オーストラリア州バンバリー生まれ、のちパースに移った。1914年、18歳のときデイリー・テレグラフ紙のレポーターとなったが、同年、第一次世界大戦に徴兵される。1919年に帰国後、記者に戻り、1921年香港の新聞社に勤務するために中国に渡る。後に北平(北京、1924-1936年)に移りクリスチャン・サイエンス・モニターAPロイター通信社北京支局記者など様々な新聞の特派員となった。1928年からマンチェスター・ガーディアン紙特派員。1934年からはASIA誌顧問編集者[3]1936年5月頃、上海に事務所を移し、1年間マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となるが、1937年5月にAP特派員として南京へ移動した。
南京から上海へ移住

1937年8月28日、鉄道部の広報誌『The Quaterly Review of Chinese Railway』の編集をしていたエリザベス・J・チェインバースと南京の英国大使館で結婚した。9月初めに上海に移りフランス租界のアパートに居を構えた。第二次上海事変に際し、上海国際赤十字の副主席で難民委員会委員長であったフランス人神父ジャキノに協力して南市安全区設置を実現、この安全区は外国人のみならず現地中国市民の保護に貢献し、南京における安全区設置の範ともなった[要出典]。先にジャキノの提案に中国側が同意、ティンパーリからジャーナリスト仲間である松本重治へ働きかけにより松本が日高参事官に話をしたところ、松井陸軍最高司令官とジャキノ、ティンパーリの会見につながり、日中間で安全区の設置に至ったとされる[4]
南京事件

1937年12月13日の南京陥落時とその後の日本軍占領時に起こったといわれる南京事件に際して、1938年1月16日電報で「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と記載した。この電報は、日本人検閲官によりに差し止められた[5]
『WHAT WAR MEANS』の出版とフィッチの渡米

ティンパーリは南京城内の安全区委員会のメンバーであったジョージ・アシュモア・フィッチマイナー・シール・ベイツからの報告や安全区委員会文書、その他各地の日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめ、『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』を編集する。

なお、出版にあたって、南京安全区国際委員会委員であり金陵大学(現:南京大学)教授であったマイナー・シール・ベイツへの書簡(1938年2月4日付)においてティンパーリは次のように書いている[6]


ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリカに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言しました。効果はてきめんだと思うのです。中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)行くとすれば早いほうが望ましいので、飛行機になると思います。資金の手配はしているところです。

まもなくフィッチは渡米し、政府関係者と面会し、以後7ヶ月ものあいだ全米各地で講演会を開いた。北村稔はティンパーリがフリーランスの記者であるため厳しい生活をしていたのではないかと言う者[7]がいたことを元に、フィッチの米国行きの飛行機代や米国での講演活動の資金源は国民党ではないかと考えている[8]

ティンパーリは、1938年4月初めに上海からロンドンに向い、7月にヴィクター・ゴランツ書店(英語版)から『What War Means: The Japanese Terror in China』を刊行した。ヴィクター・ゴランツはイギリスのSF・ファンタジー・ミステリーを主体とする出版社の経営者で、彼自身は社会主義者であった一方で当時のソ連のフィンランド侵攻を批判するなど硬骨漢であることで知られたイギリスの代表的な左翼知識人であった[9]。ティンパーリの『WHAT WAR MEANS』はレフト・ブッククラブ(LEFT BOOK CLUB,左翼叢書)という叢書のひとつとして刊行された。同叢書からはエドガー・スノー『中国の赤い星』やアグネス・スメドレー『中国は抵抗する』なども刊行されている[10][11]。また『WHAT WAR MEANS』は刊行と同時に中国語訳も出版された(由楊明訳『外人目睹中之日軍暴行』漢口民国出版社、1938年7月)。刊行後、ティンパーリは米国を旅行した後、マンチェスター・ガーディアン紙やASIA誌を辞し、1939年3月頃、重慶に入った。

1939年(4月?)から1943年3月まで、ティンパーリは中国国民党の中央宣伝部顧問となる[12]。その後、1943年から1945年まで、連合国(のInformation Officeに勤務。
第二次世界大戦後

第二次世界大戦国連の様々な機関の役職についた。1946年、前年に開設されたばかりのUNRRAの上海事務所に勤務した。

北村稔は、ティンパーリが南京軍事法廷極東国際軍事裁判に参考人として出廷しなかった理由について、ティンパーリが情報工作者であったためではないかとの見方を示した[13]。なお『WHAT WAR MEANS』の前言に出てくる「善良な日本人」は親交のあった同盟通信松本重治、上海日本総領事日高信六郎、上海派遣軍報道部宇都宮直賢であったという[14]

インドネシアオランダの紛争が深刻化すると、その仲介のために国連安全保障理事会は、インドネシアに対する仲裁委員会を設置した。ティンパーリは事務方責任者として会議に参加。1948年10月に任期を終えた後は、パリ国際連合教育科学文化機関事務所に勤務した。1950年、仲裁委員会を通してインドネシアに信頼されていたティンパーリは国際連合教育科学文化機関を辞して、インドネシア外務省(英語版)の技術的な指導をするためにジャカルタへ渡るが、1951年熱帯病に冒され、イギリスへ渡る。その後まもなくして、英国クエーカーへ入会。1952年に、ヴィクター・ゴランツの呼び掛けによる[15]「貧困への戦い(英語版)」という団体が設立された際には、ティンパーリはその指導者となった[16]

1954年11月25日、滞在先のベッドで意識不明のところを発見され、ウェスト・サセックスクックフィールドの病院に救急車で搬送されたが、翌26日に死去。56歳。
国民党中央宣伝部との関わり

従来、ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。この『WHAT WAR MEANS』の出版や日本軍の残虐行為の告発活動を通して、国民党との関わりが生じ、ティンパーリは1939年以降マンチェスター・ガーディアン紙を辞して正式に国民党に雇われたものとみなされていた。しかし、同じ1939年に(既に?)国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として宣伝工作活動を行っていたとする史料[17]や、逆にティンパーリは左翼思想の持ち主でイギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与していたとされる説[要出典]等が、近年出されている。

北村は、王凌霄『中国国民党新聞政策之研究(1928-1945)』(1996年)[18]および国際宣伝処処長曽虚白の回想記[19]に「ティンパーリーとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、国際宣伝処が関与していた可能性を示唆している[20]


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