その他の用法については「H部隊 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
H部隊(Hぶたい、英語: Force H)は、イギリス海軍が第二次世界大戦中に編成した任務部隊の一つ。ただし、H部隊それ自体が「任務部隊(Task Force)」と呼称されていたわけではない。 H部隊は、イギリス海軍が第二次世界大戦で編成した艦隊。最初のH部隊は、ドイツ海軍のポケット戦艦対策の一環として、1939年10月に重巡洋艦2隻で編成された[1](イギリス海軍、任務部隊一覧
概要
1940年6月上旬にイタリア王国が枢軸国側として参戦し、6月中旬にフランスが事実上降伏して地中海戦線に影響が生じた。イタリア王立海軍
が地中海の中央部に陣取り、ヴィシー政権のフランス海軍が中立化したので、イギリスは地中海西部のイギリス海軍を増強する[2][注釈 1]。イタリアの降伏まで地中海西部をH部隊が、東部を地中海艦隊が担当した。H部隊はジブラルタルを拠点とし[4]、地中海攻防戦と大西洋攻防戦の双方に加わった。1941年5月下旬にはドイツ戦艦ビスマルク捜索に投入され[5]、H部隊の艦上攻撃機がビスマルクの運命を決する一撃を加えた[6]。H部隊はイギリス海軍の指揮系統において一風変わった位置にあった。通常のイギリス海軍部隊のあり方から考えると、ジブラルタルを基地とするH部隊は、その地域を管轄するジブラルタルの司令(北大西洋戦域司令官、Flag Officer North Atlantic)を間に挟んで、第一海軍卿の指揮下におかれることとなる。しかし実際のところH部隊は間に誰も通さず、第一海軍卿の直接指揮下におかれていた。 1939年(昭和14年)9月初旬の第二次世界大戦勃発と共に、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) の「ポケット戦艦」ドイッチュラント級装甲艦のアドミラル・グラーフ・シュペーが大西洋で活動を開始した[7][8]。9月30日、商船クレメント
戦歴
ポケット戦艦狩り
カタパルト作戦詳細は「ナチス・ドイツのフランス侵攻」および「ナチス・ドイツによるフランス占領」を参照
1940年5月、ドイツ国防軍の電撃戦により連合国は西部戦線で大敗した。フランス第三共和政は6月22日にナチス・ドイツと独仏休戦協定を、24日にイタリア王国とヴィラ・インサーチ協定(フランス語版、イタリア語版)を締結し、事実上降伏した。フランス本国は分割され、自由地域でフィリップ・ペタン元帥を国家主席とするヴィシー政権が樹立した。