この項目では、19世紀末・アメリカ合衆国の大量殺人者について説明しています。同名を筆名に用いたアメリカ合衆国の作家については「アントニー・バウチャー」をご覧ください。
H・H・ホームズ
H. H. Holmes
H. H. Holmes
生誕ハーマン・ウェブスター・マジェット
英: Herman Webster Mudgett
(1861-05-16) 1861年5月16日
アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州ギルマントン
H・H・ホームズ(英: H. H. Holmes)ないしドクター・ヘンリー・ハワード・ホームズ(英: Dr. Henry Howard Holmes)の名前で知られるハーマン・ウェブスター・マジェット(英: Herman Webster Mudgett、1861年5月16日 - 1896年5月7日)は、「シリアルキラー」(連続殺人鬼)として記録された最初期の人物のひとりである[3][4]。彼は27件の殺人を自供したが、彼が明かした「殺人の被害者」には存命者もおり、結局9件のみ立証された。一般には200人もの被害者がいるとされているが、この数は1940年代に発行されたパルプ・マガジン(安価な大衆誌)を通じてしか確認できない[5]。多くの被害者は、シカゴ万国博覧会の会場から3マイル (4.8 km)ばかり西に位置し、「ワールズ・フェア・ホテル」(英: World's Fair Hotel)と呼ばれたホームズ所有の複合ビルで殺されたと伝わるが、証拠からはホテル部分で実際に営業していたことは有り得ないと示唆されている[5]。シリアルキラーとしての一面はさておいても、ホームズはペテン師や重婚者として成功しており、シカゴだけで50件以上の訴訟沙汰になり得るほどだった。
今日彼の犯罪譚として語り継がれる逸話は、元々フィクションだったものを後世の作家たちが事実と誤認したものが多い。一方で、2017年に彼の伝記を出版したアダム・セルザー(英語版)は、ホームズの物語は「事実上、アメリカの新しいほら話だ?そして他の素晴らしいほら話と同じように、真実という核に由来している」[注釈 5]と記している。 ホームズは1861年5月16日に、ハーマン・ウェブスター・マジェット(英: Herman Webster Mudgett)としてニューハンプシャー州ギルマントン
出生から青年時代まで
ホームズは16歳で高校を卒業し、ギルマントンや同州オールトン(英語版)で教鞭を執った。1878年7月4日には、オールトンでクララ・ラヴァリング(英: Clara Lovering)と結婚した[6]。1880年2月3日には、同州ラウドン(英語版)で息子ロバート・ラヴァリング・マジェット(英: Robert Lovering Mudgett)が生まれている[6][12]。成人後、ロバートは公認会計士となり、フロリダ州オーランドの市政担当者として働いた。
18歳でホームズはバーモント州バーリントンのバーモント大学に入学したが、大学に満足せずわずか1年で退学した。1882年にはミシガン大学医学部(英語版)[注釈 6]に入学し[13]、試験に合格して1884年6月に卒業した[14]。在学中、彼は当時解剖学の主任実地教授を務めていたハードマン教授[注釈 7]の解剖学教室で働いていたが、学生の間では遺体の全てが合法的に取得された訳ではないと噂されていた。また、ホームズはニューハンプシャーで、人体解剖の著名な支援者として知られるネイハム・ワイト(英: Dr. Nahum Wight)の元で研修していた[5]。数年後、殺人の疑いを掛けられながら保険金詐欺のみ立証されたホームズは、保険会社から詐取するために大学の遺体を使ったことを認めている[5]。また同居人からはホームズがクララに対して暴力的だったとの証言があり、1884年に彼が大学を卒表した後、クララはニューハンプシャーに戻った(このため「後の彼についてはほとんど知らない」とする手紙が残っている)[15]。ホームズはニューヨーク州ムーアズ・フォーク(英語版)に移ったが、この後ホームズが行動を共にしていた少年が後に失踪したという噂が広まった。彼は少年について、マサチューセッツ州の自宅に戻ったのだと主張しており、何の捜査も行われなかったが、ホームズは直後に町を離れた[16]。