H・H・ホームズ
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この項目では、19世紀末・アメリカ合衆国の大量殺人者について説明しています。同名を筆名に用いたアメリカ合衆国の作家については「アントニー・バウチャー」をご覧ください。

H・H・ホームズ
H. H. Holmes
H. H. Holmes
生誕ハーマン・ウェブスター・マジェット
: Herman Webster Mudgett
(1861-05-16) 1861年5月16日
アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州ギルマントン(英語版)
死没1896年5月7日(1896-05-07)(34歳)
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア、モヤメンシング刑務所(英語版)
死因絞首刑
別名ヘンリー・M・ハワード
ヘンリー・ハワード・ホームズ医師
ヘンリー・ゴードン
アレグザンダー・ボンド
OC・プラット[注釈 1]
出身校ミシガン大学
刑罰死刑(絞首刑)
配偶者

クララ・A・ラヴァリング[注釈 2] (m. 1878⁠–⁠1896) [1][2]

マータ・ベルクナップ[注釈 3] (m. 1887⁠–⁠1896)

ジョージアナ・ヨーク[注釈 4] (m. 1894⁠–⁠1896)


有罪判決1件の第1級殺人 (en) 
殺人
被害者数およそ9人
犯行期間1891年?1894年
アメリカ合衆国
カナダ


イリノイ州シカゴ

インディアナ州インディアナポリス、アーヴィントン (en) 

ペンシルベニア州フィラデルフィア

オンタリオ州トロント

逮捕日1894年11月17日
マサチューセッツ州ボストン

H・H・ホームズ(: H. H. Holmes)ないしドクター・ヘンリー・ハワード・ホームズ(英: Dr. Henry Howard Holmes)の名前で知られるハーマン・ウェブスター・マジェット(英: Herman Webster Mudgett、1861年5月16日 - 1896年5月7日)は、「シリアルキラー」(連続殺人鬼)として記録された最初期の人物のひとりである[3][4]。彼は27件の殺人を自供したが、彼が明かした「殺人の被害者」には存命者もおり、結局9件のみ立証された。一般には200人もの被害者がいるとされているが、この数は1940年代に発行されたパルプ・マガジン(安価な大衆誌)を通じてしか確認できない[5]。多くの被害者は、シカゴ万国博覧会の会場から3マイル (4.8 km)ばかり西に位置し、「ワールズ・フェア・ホテル」(英: World's Fair Hotel)と呼ばれたホームズ所有の複合ビルで殺されたと伝わるが、証拠からはホテル部分で実際に営業していたことは有り得ないと示唆されている[5]。シリアルキラーとしての一面はさておいても、ホームズはペテン師重婚者として成功しており、シカゴだけで50件以上の訴訟沙汰になり得るほどだった。

今日彼の犯罪譚として語り継がれる逸話は、元々フィクションだったものを後世の作家たちが事実と誤認したものが多い。一方で、2017年に彼の伝記を出版したアダム・セルザー(英語版)は、ホームズの物語は「事実上、アメリカの新しいほら話だ?そして他の素晴らしいほら話と同じように、真実という核に由来している」[注釈 5]と記している。
出生から青年時代まで

ホームズは1861年5月16日に、ハーマン・ウェブスター・マジェット(英: Herman Webster Mudgett)としてニューハンプシャー州ギルマントン(英語版)で生まれた[6][7][8][9]。両親のレヴィ・ホートン・マジェット(英: Levi Horton Mudgett)とシオデイト・ペイジ・プライス(英: Theodate Page Price)は、どちらもこの地区に初めて入植したイギリス人の子孫だった。マジェットは夫婦にとって3人目の子どもで、姉エレン、兄アーサー、弟ヘンリーの4人きょうだいだった[6][10]。ホームズの父は農家の生まれで、当時は農業・貿易業・家屋の塗装業を請け負っており、両親は敬虔なメソジストだった[11]。後に「シリアルキラー」となった彼を語る幼少期の逸話には、動物を拷問していた、暴力的な父の虐待に苦しんでいた、などの話が記録されているが、彼の子ども時代に関する当時の目撃証言には、これらの話を裏付けるものは無い[5]

ホームズは16歳で高校を卒業し、ギルマントンや同州オールトン(英語版)で教鞭を執った。1878年7月4日には、オールトンでクララ・ラヴァリング(英: Clara Lovering)と結婚した[6]1880年2月3日には、同州ラウドン(英語版)で息子ロバート・ラヴァリング・マジェット(英: Robert Lovering Mudgett)が生まれている[6][12]。成人後、ロバートは公認会計士となり、フロリダ州オーランドの市政担当者として働いた。

18歳でホームズはバーモント州バーリントンバーモント大学に入学したが、大学に満足せずわずか1年で退学した。1882年にはミシガン大学医学部(英語版)[注釈 6]に入学し[13]、試験に合格して1884年6月に卒業した[14]。在学中、彼は当時解剖学の主任実地教授を務めていたハードマン教授[注釈 7]の解剖学教室で働いていたが、学生の間では遺体の全てが合法的に取得された訳ではないと噂されていた。また、ホームズはニューハンプシャーで、人体解剖の著名な支援者として知られるネイハム・ワイト(英: Dr. Nahum Wight)の元で研修していた[5]。数年後、殺人の疑いを掛けられながら保険金詐欺のみ立証されたホームズは、保険会社から詐取するために大学の遺体を使ったことを認めている[5]。また同居人からはホームズがクララに対して暴力的だったとの証言があり、1884年に彼が大学を卒表した後、クララはニューハンプシャーに戻った(このため「後の彼についてはほとんど知らない」とする手紙が残っている)[15]。ホームズはニューヨーク州ムーアズ・フォーク(英語版)に移ったが、この後ホームズが行動を共にしていた少年が後に失踪したという噂が広まった。彼は少年について、マサチューセッツ州の自宅に戻ったのだと主張しており、何の捜査も行われなかったが、ホームズは直後に町を離れた[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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