GUITARHYTHM
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『GUITARHYTHM』
布袋寅泰スタジオ・アルバム
リリース1988年10月5日
録音ABBEY ROAD STUDIO studio 2
ジャンルロック
デジタル・ロック
ポップ・ロック
インダストリアル
時間4547
レーベル東芝EMI/イーストワールド
プロデュース布袋寅泰
ホッピー神山&布袋寅泰(6曲目のみ)
チャート最高順位


2位(オリコン

布袋寅泰 アルバム 年表

GUITARHYTHM
1988年GUITARHYTHM II
1991年


布袋寅泰関連のアルバム 年表

“LAST GIGS”
(1988年) GUITARHYTHM
(1988年) “SINGLES”
(1988年)

『GUITARHYTHM』収録のシングル

DANCING WITH THE MOONLIGHT
リリース: 1989年4月3日

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『GUITARHYTHM』(ギタリズム)は、日本のミュージシャンである布袋寅泰のファースト・アルバムである。
背景

BOOWY解散後、程なくして発売された布袋寅泰のファースト・ソロ・アルバム。

バンド時代の音楽性とは大きく異なり、コンピュータを大胆に取り入れたデジタル・ロックといった趣を見せており、「架空のサウンドトラック」をコンセプトに、それを意識した楽曲作りとアルバム構成が成されている[1]

「GUITARHYTHM」とは、GUITAR(ギター)とRHYTHM(リズム)を組み合わせた布袋による造語。また、アルバムのタイトルに冠したシリーズプロジェクトの総称を指す。ちなみにこの言葉には「イズム=主義」という意味も含まれている[2][3]

先行シングルがなく全曲が新曲。また全曲英語詞であり、これは海外進出を意識して制作された為である[4]。当時のインタビューでは、日本語と英語が混交した歌詞への違和感を口にし、また日本のリスナーに自身のボーカルがメインになることを望んでいない旨を述べており、総じて「音楽として聴いてほしい」とも語っている[5]

布袋は本作について「アーティストといって胸をはって生きてる以上は、作るものがアートじゃなきゃいけない」「曲にしたって、詩にしたって、ジャケットのアートワークにしたって、すべてをアートにしたいと思った」と語っており、アルバムの制作に関して芸術性が強く意識されていた[6]

作曲についてBOOWY解散直後のインタビューでは、基本的にBOOWY時代と変わらないと語っており[7]、当初はBOOWY風の楽曲も制作していた。しかし当時の妻である山下久美子や当時のマネージャーからBOOWYとの類似性を指摘された他[8]、バンド時代とは違う新たなスタイルを志したこと、土屋昌巳から「自分をコピーするようになったらお終い」とアドバイスされたことなどから「そういった楽曲は容赦なく切り捨てた」という[1]

各プレスからの評価は軒並み好評であったが、一部では「BOOWYで得た印税を使いたい放題に使って作った贅沢なアルバム」とも評され、「当時これにはそれなりにショックを受けた」と布袋は語っている[9]。またイギリスでのプロモーションが成功しなかったこともあり、日本でのセールスは成功したものの最終的な商業面は赤字であったと後年布袋は述べている。

本作をリリースするに当たり、1988年6月に布袋は以下の一文を記している[2]

《GUITAR+RHYTHM=GUITARHYTHM》

そろそろ90年代ロックンロールの幕開けというべきロックンロールを提示しなくてはいけない時期が来た。
そもそもロックンロールに国境はなく、イギリスアメリカ問わず、ビル・ヘイリー(元祖ロックンロール!)、リトル・リチャードチャック・ベリージーン・ビンセントエディ・コクランボ・ディドリーエルヴィス・プレスリービートルズストーンズ?時代は流れてT.REXルー・リードデヴィッド・ボウイイギー・ポップ?セックス・ピストルズ etc……
ジグジグ・スパトニクによる90年代へのアプローチは奇しくも失敗に終わったが、常に刺激を求めるビート・フリークたちの関心は、なまやさしいメロウなロックンロールでは満足できなくなっている。パンク・ムーヴメントの果たした役割ははかりしれないほど偉大なものだったが、大きく分けてビート派とメロディ派に極端に分かれすぎて、今やシークェンスの反復を利用した、ドナ・サマー(!?)が切り開いたディスコ・ミュージックとほとんど変わらないありさまだ。
ロックという言葉の持つ意味が個人の解釈に委ねられた今、逆にインパクトを持ち、国内のみならず海外にもアピールしうるロックンロールがこれから作っていく《GUITARHYTHM》の基本になっていく。
テーマは【スピード】【リフレイン】【メロディ】【コンピュータ】【パンク】の5つに集約されている。 わかりやすく言うとセックス・ピストルズのギタリストとジグ・ジグ・スパトニックのリズム隊をバックに、エディ・コクランがビートルズの歌を赤いスーツを着て歌うということだ。

(原文ママ)」

このメモは作品の方向性に悩んでいた時に、布袋が自身の事務所にアルバムの方向性を提示したものを、プロモーション用に事務所側が使用したもので、その後コンセプトは更に変化していった[10]
録音

“LAST GIGS”』から2ヶ月を経た1988年6月13日ロンドンへと渡り、制作が開始された[2]

一部の楽曲でゲストミュージシャンを迎えてはいるが、基本的に布袋、プログラマー藤井丈司キーボーディストホッピー神山の3人で制作されたアルバムである[4]

デジタル要素の強い作品であるものの、当時はまだコンピュータ媒体が発展途上だったこともあり、ギターとコンピュータの一発録りに近い形でレコーディングは進められた。またレコーディングではプロデューサーとアーティストの両方を目一杯やったとのことで、「レコードを1枚作る重みを味わいたいと思った。BOOWYの時はグループだから、僕には僕の役割があり、それをやるだけで良かった。今回は1枚のレコードを作ることに、それこそジャケットひとつのことまでも、ドップリ浸かってドップリ終わるというのが最初の目標だった」と語っている[1]

ビートルズが使用したことでも有名なロンドンアビー・ロード・スタジオの第2スタジオにてレコーディングされた。海外レコーディングはホッピー神山の提案によるもので、アビー・ロード・スタジオの使用もビートルズファンのホッピーの意向であった[11]。レコーディングを終え帰国後、東京で改めて聴き直すとイギリスと日本の電圧の違いによる差異に違和感を覚え1からやり直したくなったが、数日したら違和感は無くなったという。

ギターテイクはアンプを一切使用せず、当時ではまだ珍しかったライン録りの手法でレコーディングされた[12]。さらにそのままの音ではなく、全ての音にノイズリダクションをはじめとした加工が成されている。
リリース


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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