1993年、西原誠、西川弘剛らにより大阪で結成。同年にメンバー募集のチラシを見て参加した田中和将、翌1994年に西川の後輩である亀井亨が加入し、大阪を拠点に精力的に活動を行う。 1997年にミニアルバム『覚醒』でメジャー・デビューし、東京に進出する。 1999年に4thシングル「スロウ」でブレイク。同年にリリースされた2ndアルバム『Lifetime』はバンド最高位となるオリコン初登場3位を獲得した。 2001年、結成当時からのリーダーである西原誠が、ジストニア治療に専念するためバンドを一時離脱。同年に行われた全国ツアー「Whitewood」では、サポートメンバーに金戸覚(ベース)と高野勲(キーボード)を迎える形で行われ、以降のライブはキーボードを加えた5人編成で活動している。西原は翌2002年に復帰するが、ジストニアの症状が再発した為、同年内をもって脱退。 メジャー・デビュー以降は、2006年と2014年を除き、ほぼ毎年コンスタントにアルバムをリリースしている(2010年は「長田進withGRAPEVINE」名義でのリリース)。2012年にメジャーデビュー15周年を迎えた。 2014年、デビュー当時から在籍していたポニーキャニオンを離れ、数か月間のどこにも所属しない期間を経た後、SPEEDSTAR RECORDSへレーベル移籍することを発表[10]。SPACE SHOWER MUSICとのマネージメント契約締結も併せて発表された[11]。レーベル移籍後、以前はしなかったようなMVでの演技や、メディアへの積極的な露出が増えたことについて、田中は契約の時に「なんでもしますんで」という約束をしたことを挙げている。
2人は正式なメンバーでは無いものの、3人体制になってからのインタビューで田中は「意識としては今年(2003年)から(金戸、高野を含めた)5人バンドなんで」[5]、「実際にライブでもレコーディングでもずっと5人で作っているんで、ほとんどメンバーみたいな気分というか、こっちとしては、5人バンドをやっている気分」[6]と発言しており、バンドには欠かせない存在となっている。
田中は3人編成で活動する理由について、金戸と高野がミュージシャンとして他でも活動していることから、「単純にそのほうがフレキシブルだからですよ」と述べており、「特別その正式メンバーにこだわる理由がひとつもないというか。(中略)たぶんプロモーションでの見せ方ってことだと思うんですけど、ライブは事実ずっと5人でやってるわけですから」とも語っている[7]。
元メンバー
西原誠 (にしはら まこと、 (1969-08-21) 1969年8月21日(54歳) - )ベース、作曲。在任中はGRAPEVINEのリーダーを務めていた。
広島県出身。B型。
ジストニアの治療のため一時バンドを離脱し、一度は復帰したものの、再発によりベースの演奏に困難をきたす事態になった為、2002年12月1日に本人の申し出で脱退した[8][9]。
5thシングル「光について」のc/w「窓」では作詞を担当している。
脱退後はベースと平行し主にギタリストへと転向、THE LATERS、Dropなどのバンドや、他のバンドのプロデュース等で活動している。現在でもメンバーと交流がある。現在は「JIVES(THE JIVESとは別物)」を結成、またプロデュースしていた「ライターイチキューゼロイー」にメンバーとして加入している。
来歴
エピソード
メンバー
田中はもともとギターで入りたかったが、セッションにて歌声を聴いた西原の推薦によりボーカル担当となる。そのため、デビュー前にボーカルの重圧に耐えかね一時失踪している(実際は西原の留守電に辞めたい旨の伝言を残し、その足でフェリーで四国に向かうがその日のうちに帰ってきた)。その後西原による再三の説得により復帰。ギター志望だっただけありギターの腕前は良く、よくライブで西川と掛け合いでギターソロをやっている。
ライブ終わりに田中の言う「アーリガットサーン!」はイベントや配信終わりにTwitterなどでファンが言う〆の言葉にもなっている。