FUJIC
[Wikipedia|▼Menu]

FUJIC主記憶装置(前)と算術・制御・記憶装置のラック(後)
開発元岡崎文次
製造元富士写真フイルム
種別真空管式コンピュータ
対応メディアパンチカード入力、タイプライター出力
CPU真空管を使った独自回路 @ 同時:30 kHz、逐次:1080 kHz
メモリ255ワード×33ビット (水銀遅延管)
電源7キロワット
国立科学博物館に展示されたFUJIC。

FUJIC(フジック)は、日本で開発および製作された中では初めて本格稼働した(狭義の電子式)コンピュータである。富士写真フイルム(のちの富士フイルム)の技術者であった岡崎文次が、レンズ設計の計算のために1949年に開発に着手し、1956年に完成させた。

国立科学博物館つくば資料庫が所蔵している[1]。2008年、情報処理学会第1回情報処理技術遺産に指定された。
開発の経緯

黎明期のコンピュータ開発は、ENIACに代表され、日本ではTACのような、国家的プロジェクトやそれに準ずる規模の大企業のプロジェクトとして進められたものと、EDSACのように少数の研究者を中心としたチームにより作られたものとに分けられる。FUJICは後者である。

電機メーカーではなく、計算需要者の側であった一民間企業の個人が、通常の業務時間の合間をぬって資料や材料を地道に集め、技術面も複雑なものでなく実用的で安価なものを採用した、というプロジェクトであった。
製造を決意するまで

岡崎文次がコンピュータの世界に初めて触れたのは1948年で、「科学朝日」に掲載されていたIBMのコンピュータ「SSEC」の記事を読み、前から空想していた、機械による即時の大量計算が現実になったのを悟る[2]

1949年当時、岡崎は富士写真フイルム小田原工場のレンズ設計課で、カメラレンズの設計課長を務めていた。レンズの設計には複雑な計算が必要で、当時の機械式計算機では精度が低く、数十人の社員が数表で計算していた[2]。岡崎はその作業の効率化のためにコンピュータが有効だと考えたが、当時コンピュータは海外の大学ぐらいにしかなかった。自国でコンピュータを作ろうとしていた者は多数いたので、岡崎も自作を考える。

岡崎の卒業した第八高等学校(八高)は、「二進法は便利」「数はゼロから数えた方が便利」など、型にはまらない独創的な数学教育を行っていて「高度な数学を教える」との評判があり、この薫陶を受けた岡崎はコンピュータのプロセスや二進法に抵抗がなかったという[2]。また、東京帝国大学在学中、理化学研究所仁科芳雄研究室で粒子を数えるカウンタに使われていたデジタル回路の無音で高速な点が気に入り、「カウントだけでなく計算にも使えるのでは」と調べてみた経験があった[2]

岡崎は1949年3月、「レンズ設計の自動的方法について」と題するコンピュータ設計の提案書を会社に提出[2]。これが認められ、20万円の研究予算を手にした。
情報収集、設計

岡崎は研究・開発作業を業務時間には行わず、本来の仕事の合間や休暇日を使った。開発の際、モデルにした機種は特になかった。

まず、海外の雑誌記事や論文を収集したが、当時は文献がまだ数少なかったため、かえって調査に余計な時間が出なかった[2]大阪大学城憲三研究室から文献の一覧表を送ってもらったり、進駐軍が作ったCIE図書館で文献を撮影して読んだりしたという[2]

部品は神田須田町の露店で購入。経費もまとめて高額で請求すると会社が驚くため、できるだけ安く小刻みに申請していた。半年に数十万円ほどだったという。手伝ってもらったのは女性計算手一人だけで、一人開発のため意見調整で時間を取られることもなかった。社内ではよくも悪くもさっぱり注目されず、かえって余計なプレッシャーがかからなかった。

岡崎は「コンピュータは電気を使ったそろばん」と考えていたことから、まず数値の入出力処理をつかさどるフリップフロップの動作試験にかかったが、安定した動作のために、真空管の特性曲線をブラウン管に映す、一種の治具的装置から作らねばならなかった。この難易度について『計算機屋かく戦えり』のインタビューでは「苦労しなかった」としている一方で、1974年に書いた論文『わが国初めての電子計算機 FUJIC』[2]では「時間がかかった」と語っている。

フリップフロップができると、次は二進数で4桁の計算を行う計算機(演算装置)の作成にとりかかるため、くりかえし論理回路モデルを試験的に組んだ[2]。このときのデモ機では手動による約1Hz(いわゆるステップ実行)、電源交流(東日本)をベースとした25Hz、発振器による約30kHzの3種類の動作周波数を切り替えて使えるようにした[2]。また、動作周波数とフリップフロップの作動状況はすべて同じ場所にランプで表示するようにし、これは自社の幹部や外部の見学者に見せる際に役に立ったという[2]

デモ機の成功を受け、メインメモリの試験に入り、やがてプログラムや入出力の方式を含む基本的な構成が固まる[2]。このほかのシステム構成については後述する。
製造、特許製作中のFUJIC。手前に見える箱は水銀タンクに繋がる遅延回路。

1952年12月より本格製造にかかる[2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef