FS作戦(FSさくせん)は、第二次世界大戦(大東亜戦争)中に計画された日本軍の作戦である。陸海軍中央協定で定められた作戦名称は「F作戦」[1]。F作戦は、ニューカレドニヤ作戦(ニ号作戦またはNK作戦)、フィジー作戦(フ号作戦またはFI作戦)、サモア作戦(サ号作戦またはSA作戦)の総号呼称[2]。米豪分断のためにフィジー、サモア方面への進攻を計画したが、使用予定の空母をMI作戦で失ったため、基地航空部隊を使用する案に変更されて延期し、後に中止された。 陸海軍中央協定に定められた作戦目的は、「『ニューカレドニヤ』『フィジー』諸島及『サモア』諸島要地を攻略して米豪間の連絡遮断を強化すると共に該方面よりする敵の反撃企図を封殺するに在り」である[3]。米豪遮断によってオーストラリア脱落を促進しようというものだった[4]。 作戦は、まずニューカレドニアに奇襲上陸し、次いでフィジー諸島、サモア諸島に急襲上陸し、ヌウメア、スパ、パゴパゴなどの要地を攻略する。ニューカレドニア及びフィジー諸島の要地は攻略後確保し海軍の作戦基地を推進する。サモア諸島は要地攻略後は諸施設を破壊し、撤去あるいは確保する[3]。連合艦隊が1942年4月13日に示した日程では、1942年7月8日ニューカレドニア攻略、18日フィジー攻略、21日サモア攻略であった[5]。日本海軍の使用兵力は、第二艦隊、第一航空艦隊基幹と予定した。日本陸軍は、第17軍を編成し、ニューカレドニアに南海支隊(歩兵3大隊基幹)を、フィジーに軍司令官の指揮する歩兵5大隊基幹を、サモアに連隊長の指揮する歩兵1大隊をそれぞれ予定していた。日本軍は4月中旬ごろのこの方面の連合軍海上兵力を空母1?3隻、巡洋艦7隻(豪3、米4)基幹と推定していた[6]。 1942年4月下旬にFS作戦を含む第二段作戦図演計画を作成配布して、5月1日から図上演習を行ったが、FS作戦計画立案の主担任であった連合艦隊航空参謀佐々木彰中佐は「第二期作戦であるミッドウェー作戦の研究に重点をおいた図演だったので、FS作戦はその概略だけを計画し、詳細はミッドウェー作戦後トラックに集結したとき、研究して決める予定であった」と戦後回想している。陸軍の計画は、5月5日の一木支隊の戦闘序列などにつき上奏した際に近くFS作戦に関する命令の允裁を仰ぐ所存であることを述べているため、5月上旬には完成に近づいていたと考えられる[7]。 軍令部航空参謀三代辰吉中佐はミッドウェー作戦に反対しFS作戦を主張していたが、敵の大型機がハワイから支援可能なのに対し、日本は基地航空部隊の能力から付近の索敵ができないこと、攻略して敵の艦隊を誘い出し決戦すると言うが、相手は不利ならば他にも手があり出てこないであろうこと、ミッドウェーを取れても敵の艦隊がある限り確保できないこと、FS作戦で西から攻めれば敵の空母は出てくるし、ミッドウェーより容易であることが理由だったという[8]。また、「オーストラリアを本拠地にして反撃されるのを防ぐため、ニューカレドニアをはじめ、できれば豪州北東一部占領する計画。陸軍がうんと言わず引っこめた」「フィジー、サモアまで手を出さずその辺を抑えれば補給を断ち攻撃して米豪を遮断する」と答えている[9]。これに対し、連合艦隊作戦参謀三和義勇大佐は「フィジー方面の作戦に関し、軍令部側相当異論あるが如し。何れも妄論に近し。特に同方面に依り、米豪交通を遮断し得と考へるは、子供の議論なり。」と日記に残している[10]。曽我清少尉は「日本はアメリカにとてもかなわないと言いながら開戦するとオーストラリアを取らないとダメと大言壮語している」「ここまでとらなきゃいかん、とったらここからやられるからまたここはいかんという、富岡さんや三代さんなんかは敵を知らず己を知らなかった」と戦後批判している[9]。 1942年(昭和17年)1月末、日本の陸海軍部作戦主務者は、米豪連絡遮断、南太平洋からの敵の反攻基地奪取のため、ニューカレドニア、フィジー、サモア攻略作戦を第二段作戦で実施することを合意した[6]。 陸軍部は使用兵力を概定するなど下準備を進め始めた[6]。海軍では、ミッドウェー作戦を主張する連合艦隊とFS作戦を主張する軍令部で対立があった。最終的に連合艦隊が歩み寄り、ニューカレドニア、フィジーは攻略確保し、サモアは連合艦隊司令長官山本五十六大将の意向で攻略、破壊後は引き上げる計画になった[11]。陸海軍部で正式に合意に達して第二段作戦に組み入れられると、連合艦隊は本作戦をミッドウェー作戦に引き続き実施することとし、時期を7月と予定した[6]。 1942年(昭和17年)4月28日、連合艦隊は関係者に作戦計画案を配布。
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