FCM1A_(戦車)
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FCM 1A性能諸元
全長8.353 m
全幅2.844 m
全高1.981 m
重量41 t
懸架方式
リーフ式サスペンションボギー式
スキッドステア式前輪変速
後輪駆動
速度5.98 km/h
行動距離160 km
主砲

シュナイダー mle.1909 105mm榴弾砲
(弾薬 120発)
または

modele 1897 75mmカノン砲
(弾薬 200発)

副武装ホッチキス Mle1914 8mm機関銃 2挺[注釈 1]
(弾薬 15,000発(最大)
装甲

車体=

車体正面上/下部 35/30 mm

車体側面 20 mm

車体天/底面 15 mm


砲塔=

前/側面 35/30 mm

天面 13 mm


エンジンルノー V型12気筒液冷ガソリンエンジン 1基
220 HP(1,200 回転/分
乗員7 名
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FCM1A(シャール 1A(FCM Char 1A)とも)は、第一次世界大戦中にフランスで開発された重戦車である。

“シャール(Char)”とは元来はフランス語チャリオット英語では“Chariot”)、すなわち古代の戦闘用馬車のことで、転じて近代兵器としての戦車を指す。“Char 1A”とは「1A型戦車」という意味となる。
概要

FCM 1Aは第一次世界大戦中に計画・開発されたフランス初の重戦車である。その設計は、第一次世界大戦当時に開発された最初期の戦車でありながら、全周旋回可能な砲塔に大口径の主砲を装備する、先進的かつ強力なものであった。

しかし、フランス軍内部で戦車というものに対する方針が確立されていなかったため、関係者の派閥争いと政治的思惑によって計画が迷走した結果、試作車が完成したのみであり、各種の試験が行われたものの量産はされなかった。第一次大戦後はいくつかのテストに用いられた後は試験場の一角に放置されていた。

第二次世界大戦に際して、パリに迫るドイツ軍に対し、走行不可能な状態でトーチカとして配備されたが、ドイツ軍に鹵獲されて戦勝記念品として展示され、その後の行方は不明である。
開発
開発までの経緯

第一次世界大戦2年目の1916年夏、フランス陸軍砲兵副長官、レオン=オーガスティン・ムーレ(Leon Augustin Jean Marie Mouret)将軍は、フランス南部のトゥーロンの南にあるラ・セーヌ=シュル=メールに所在する造船所であるFCM社(Forges et Chantiers de la Mediterranee:地中海鉄工造船所)(仏語版)に対し、戦車開発に関する契約を行った。

当時まだ「戦車」というものは実戦に投入されてはおらず、当時のフランス軍では後に戦車と呼ばれる装軌式装甲戦闘車両について、確たる方針を持って開発にあたってはおらず、各兵科の構想する案が並立されており、更に技術部門と管理部門が積極的に介入し、混迷を極めていた。

フランス陸軍砲兵科の有力者であるムーレが理想としたものは、後に「重戦車」と分類されることになる、大口径の砲を装備した大型で重武装重装甲の車両であり、FCMに対する契約もその方向性に則っていたものであったが、フランス陸軍全体としての開発方針は技術的困難が大きいと予想される重戦車には冷淡で、幾つかの指針でも「重戦車は不要である」という判断であった。ムーレがFCMに認めた契約内容は、重戦車を不要とするフランス軍の指針と相容れないもので、重戦車開発の決定は、全てムーレ個人の権限で下されたようである。そのため、試作車両を製造するための公式な方針は存在していなかった。もし、ここでムーレの独断専行がフランス軍に発覚し、軍の介入がなされていれば、本車がこの仕様で製造されることもなかったであろう。

一方、当時のフランス工業界は軍需製品受注のロビー活動に積極的だった。受注費用は国家によって完全に支払われ、実際の生産に移行せずとも、開発契約は非常な利益になることがあった。ただし、FCMは財政的な利益を別としながらも、重戦車開発そのものには利益を見出しておらず、契約内容が具体性に欠ける曖昧なものであることもあり、開発計画の推進を大きく怠っていた。

このように、この開発計画は公式の計画としては大いに問題のあるものだったが、当時、すべての戦車開発計画は高度の秘密であり、それによってムーレの独断専行、及びFCMの開発状況の遅延も部外者の調査から保護されていた。しかし、この状況はすぐに変わることとなった。

1916年9月15日イギリスは最初の戦車であるマークIを配備した。ソンムの戦いで敗北し、イギリス社会のムードがこれまでになく暗くなっていたとき、戦車は最終的な勝利への新しい希望を与えたのである。これを受けてフランス国民も、自国が計画する戦車開発に強い興味を抱くようになった。国民の関心の高まりを受けてムーレは9月30日には開発計画を掌握し、FCMでの新型重戦車の開発の進捗を調査したが、何も進展のないことを知って衝撃を受けた。ムーレの追及に対してFCMは開発の遅延(実質的にはほとんど何も行われていなかった)の理由に資金の不足と技術的問題を挙げたため、ムーレは10月12日ルノー社のルイ・ルノーに対し、FCMを援助するよう要請した。その数カ月前に、ルノー社は大型装軌車両の開発に関する提案を陸軍に拒否されており、この要請はルノーにとっては大いなる恩恵だった。

ルノーの率いる設計開発陣は、1916年5月から回転砲塔を持つ2人乗り小型戦車、ルノー FT-17軽戦車の設計にかかっていたものの、他の戦車について検討する余裕はあった。開発陣の主任設計士を務めるロドルフ・エルンスト・メッツマイヤー(Rodolphe Ernst-Metzmaier)は率先して重戦車のための基礎研究を行っており、この幸運な状況に助けられ、FCMの開発するべき重戦車の基本的な構想は即座に固まった。

1916年12月13日には、フランス軍内での戦車開発を一本化するべく、CCAS (フランス語: Comite Consultatif de l'Artillerie d'Assaut[注釈 2]:突撃砲兵諮問委員会)が設立された。“砲兵”という名が入っていることからもわかるように、この委員会は砲兵科の強い影響下で組織されており、事実上はムーレが掌握していた。同月17日には最初の会合が行われた。この席でFCMは“char lourd”(フランス語で「重戦車」の意)の基本的構想を提出、これは12月30日に承認された。これに続いてルノーの設計開発陣は、木製の原寸模型を急遽製作し、1917年1月17日に委員会に提出した。この車両は非常に好意的に受け取られ、それまで重戦車に対して冷淡であったフランス軍においても、重戦車の開発計画は「戦争の勝者」として最も有望だという総意が生まれ始めた。


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