この項目では、原型について説明しています。全天候要撃型については「F-86D (航空機)」をご覧ください。
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飛行するF-86F-35-NA 52-5233号機
(第72戦闘爆撃飛行隊
F-86 セイバー(North American F-86 Sabre )は、アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発し、世界各地で運用されたジェット戦闘機。愛称の「セイバー (Sabre)」は、サーベルの意。 1947年10月に初飛行[1]。後に生産国のアメリカをはじめ、1950年代以降に多くの西側諸国で正式採用された亜音速ジェット戦闘機で、アメリカ空軍が1950年代初頭より主力戦闘機として最も重きを置いて配備を急いだ傑作機であった。朝鮮戦争にも投入され、第1世代ジェット戦闘機に分類される。 武装は当初こそ平凡なものであったが、後に空対空ミサイル(サイドワインダー)が開発されるとその有効性も実証した。アメリカのみならず、カナダやオーストラリアをはじめとして、日本やイタリアでも生産され、派生型も含めて9,860機が製造された。 第二次世界大戦末期の1944年にノースアメリカン社は、大日本帝国海軍に対抗する艦上ジェット戦闘機案NA-134をアメリカ海軍に提案していた。これを受けて、1945年1月1日、アメリカ海軍は艦上ジェット戦闘機XFJ-1の開発を発注した。これは、P-51の主翼と尾翼をそのまま流用し、胴体のみジェットエンジン搭載の新設計のものに変えた機体である。この機体の開発を受けて、アメリカ陸軍航空軍は1945年5月23日にXFJ-1の陸上型XP-86の開発を発注した。 そんな最中の1945年6月に、ノース・アメリカン社は前月連合国に降伏したばかりのドイツ国内の占領地から後退翼に関するレポートといった[1]、大量の航空機の先進的実験データを得た。このデータを基にノースアメリカン社は開発中のXP-86の設計を変更し、高速戦闘機に必要な後退翼を装備させる必要があるとして、設計中の機体を後退翼機にする許可を求めた[1]。アメリカ陸軍はこれを了承し[1]、P-51から流用した主翼・尾翼に代えて新設計の後退翼を採用した。完成した試作機XP-86は、第二次世界大戦の終結には間に合わず、大戦終結から2年後の1947年10月1日に初飛行を行う。 予想以上の速度性能と、機体運用の実用面で特に問題がないと判断され、P-86の実用化は急速に進められ[2]、1948年9月には、最初の量産型であるA型が、緩降下による1079.6 km/hを記録して当時の世界最高速度を樹立している[3]。1949年にはA型が実戦部隊へ配備される[2]。 この後、アメリカ陸軍航空軍はアメリカ陸軍から独立してアメリカ空軍となり、それに伴って使用する航空機の命名法が変更された。陸軍航空軍の戦闘機は追撃機と呼ばれ、追撃(pursuit)の頭文字Pから始まる一連の番号が振られていたが、1948年6月から戦闘機(fighter)の頭文字Fが与えられるようになった。そのため、P-86AはF-86Aと改称された。 主翼は、鹵獲したドイツ軍機の開発研究データを参考に開発した低翼配置の35度の前縁後退翼を採用しており、主翼後縁には、内側にスロテッド・フラップ、外側には補助翼を装備している。垂直尾翼と水平尾翼も同じく後退翼が採用されており、機体後方両側には、横方向に可動するエアー・ブレーキが装備されている。また、垂直尾翼の先端前方にはVHF/IFF用のアンテナが装備されている。コックピットのキャノピーの形状は涙滴型で360度の視界を確保し空戦では有効に機能した(後述)。座席には射出座席を装備している。エンジンへの空気取入れ方式はノーズ・インテイクを採用しており、ノズルは機体末端に付けられている。機体末端下部には、緊急の際に機内の燃料を排出するための燃料緊急排出弁が取付けられている[3]。 生産の途中で空力的に様々な改良を受けており、E型以降は全遊動式(オールフライングテイル)の水平尾翼を装備し、主翼についても、後退翼は低速度において迎え角を増すと翼端失速を起こしやすく、着陸速度が高いため、主翼上面の空気の流れを制御することで、翼端失速を遅らせるとともに着陸速度を低くする機能を持つ前縁スラット型と境界制御型の2種がある[3]。 機銃はインテイク周辺に12.7mm AN/M3機関銃計6門を集中装備としている[3]。また、F-86Aのバッチ3(F-86A-5)以降では、レーダーを使用したレーダー照準器による火器管制システムが搭載された。これは、機首部に搭載されている測距レーダー・アンテナからマイクロ波を発射して目標までの距離を測定して、それを元に計算機が大気密度・風向・風速などの条件を加えて、目標の未来位置をコックピットの照準器に照準線(レティクル)を表示するものであり[4]、これにより、射撃精度は飛躍的に向上した。主翼下には増槽や爆弾、ロケット弾の携行が可能で、後に空対空ミサイルも携行するようになった。 F-86A-5ではAPG-5測距レーダーによるA-1Bレーダー照準器、F-86A-6では改良型のA-1CMレーダー照準器が採用され、F-86A-7ではさらにAPG-30測距レーダーが導入された。この測距レーダーはMA-2火器管制装置の中核となる装置であり、F-86Eにおいても搭載された。また、F-86Fにおいては、改良型のMA-3が採用された。 F-86Aは、1949年よりアメリカ空軍への配備が開始された。第1戦闘機群を皮切りに国内重要拠点の防空任務に就いた。 F-86の名を上げたのは、初の実戦である1950年に開始された朝鮮戦争における活躍であった。国連軍が朝鮮戦争に参加した当初、金日成の朝鮮人民軍は本格的な航空兵力を持たず、アメリカ海軍の艦載機グラマンF9F パンサーやアメリカ空軍のリパブリックF-84G、ロッキードF-80 シューティングスターなどの直線翼を有するジェット戦闘機はもちろん、第二次世界大戦中に活躍したF-51DやF4U コルセアといったレシプロ機も活躍できるほどであった。 しかし、1949年に成立した中華人民共和国の抗美援朝義勇軍が参戦すると、ソビエト連邦から大量に貸与された中国人民解放軍所属のMiG-15が鴨緑江を越えて飛来するようになり、直線翼のジェット戦闘機では対抗しきれないと判断したアメリカ空軍は1950年12月から、前線にF-86を投入し、朝鮮半島上空にて史上初の後退翼ジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。F-86の涙滴型のキャノピー。レスキューボタンも見える F-86は一部の機体性能ではMiG-15に劣っていたが、結果は投入から休戦までの約2年間で損失78機に対し撃墜数約800機とキルレシオ4の戦果(ソ連資料では2)を上げた[注釈 2]。当時操縦士として実戦を経験したジョン・ボイドは、F-86は涙滴型のキャノピーにより360度の視界が確保されており、MiG-15に比べると操縦も容易であったため、敵機をより早く発見・対応することが可能となったという考えにいたり、決定的な勝因は操縦士の意思決定速度の差にあったと結論づけた。またレーダー照準器による高い射撃精度もこれを後押しした。ボイドはこの考えをOODAループ理論へと発展させた。 空対空ミサイルが初めて実戦で使用され、撃墜を記録したのは1958年9月24日に中華民国金門馬祖周辺の台湾海峡において行われた、台湾空軍と中華人民共和国の人民解放軍空軍との交戦(金門砲戦)とされている。 この戦闘において、台湾空軍はアメリカから供与されたAIM-9 サイドワインダー空対空ミサイルを装備したF-86F戦闘機をもって人民解放軍のMiG-17F(またはJ-5)と交戦、11機を撃墜した。詳細は「ミサイル万能論」を参照 アメリカでは、朝鮮戦争後にその戦訓を取り入れたセンチュリーシリーズを始めとする超音速戦闘機が短期間で開発されると急速に陳腐化していった[5] が、世界各国にその優秀さが認められたことで、日本やイタリア、フランスを始めとする同盟国や友好国へ大量に供与されることとなった。
概要
開発XP-86
特徴内部の様子キャノピー
沿革
配備開始
朝鮮戦争韓国の水原空軍基地に展開するF-86(朝鮮戦争時)
ミサイル空中戦の先駆台湾岡山空軍軍官学校にて展示される台湾空軍のF-86F
各国への配備
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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