F-15_(戦闘機)
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1956年に配備の始まったサイドワインダーを装備したF-86戦闘機が、1958年台湾海峡における金門砲戦時の大規模な空中戦などで戦果をあげた[注釈 2]事例などから、アメリカ空軍では今後の戦闘機同士の戦闘は「遠距離から射程の長いミサイルを発射して相手を撃墜するものになる」という「ミサイル万能論」が主流となり、空対空兵装としての機関砲は軽視されるようになっていった。また、1950年代ソ連によるM-4(バイソン)Tu-95(ベア)といった新型爆撃機の配備を重大な脅威として対応する必要を唱える「ボマーギャップ」論が広まった。そのためにアメリカ空軍は、要撃機爆撃能力の拡充に重点を置くこととなった。

これらの結果、新規開発の比重は対戦闘機戦闘を主目的とした制空戦闘機から、(核)ミサイルによる爆撃機要撃のためのF-102の様な要撃戦闘機や、対地攻撃力を補充するF-105の様な戦闘爆撃機に移っていった。当初、F-86セイバーの後継とされたF-100スーパーセイバーも戦闘爆撃機に転用され、F-101F-104も運動性を軽視した仕様となった。

こうした経緯から、アメリカ空軍はベトナム戦争開始時期に充分な格闘戦能力を持つ機体を保有しておらず、緒戦での同士討ちを契機に定められた有視界外戦闘を禁止した交戦規定により、旧式のMiG-17との格闘戦闘に巻き込まれて苦戦を強いられた。ただし1961年当時の国防長官ロバート・マクナマラの推し進めた空海両軍の機種統一により導入したF-4が、比較的機動性に優れていたためベトナム戦争を凌ぐことはできた。

さらにマクナマラはコスト削減と合理化を図るべく、空軍主体で開発する戦闘爆撃機を海軍向けに艦隊防空用の要撃機に発達させ共通化を図るTFX計画を進めたが、重量増加、エンジン(プラット・アンド・ホイットニー TF30)のストール、アメリカ海軍用の新ミサイルAIM-54 フェニックス)や新火器管制装置AN/AWG-9)の開発遅延といった問題によるF-111Bキャンセルの結果、コスト高や運動性能等の問題を抱えながら空軍用であるF-111Aのみの実用という結末を迎えることとなった。
F-X開発

海軍はTFX実用化断念後の1965年に、次期戦闘攻撃機VFAX(後に中止)や次期戦闘機VFX(後のF-14)の開発研究を開始していた。空軍もF-111どころかF-4さえ重すぎて制空戦闘に不適と考え、同年4月、F-Xの開発研究に着手した。

1966年3月、ノースアメリカン・ロックウェルロッキードボーイングの3社とTactical Support Aircraft(戦術支援機)に関する4ヶ月間の概念作成研究契約を締結した。同年9月3社の研究結果の評価を完了したが、開発方針の決定には至らなかった。その概要は以下の通りである。

機体重量約27トン(60,000lb+)

瞬間最大速度マッハ2.7、最大速度マッハ2.5

推力重量比0.75

F-111よりも良好な加速・上昇などの飛行性能を有し、可変後退翼を備える

中射程空対空ミサイル爆弾を装備

この時期、1967年7月に行われたモスクワドモジェドヴォ空港での航空ショーMiG-25が突如出現し、上空を高速で通過していった。周到に演出されたこのフライパスのみならず、ソ連はこの航空ショーに、MiG-23Su-15を初めとした試作機や実験機を含む多種の機体を第3世代ジェット戦闘機として出品し、これらに大きな衝撃を受けた西側の航空機専門家はソ連の意図通りにその実体以上の過大な評価を下した。アメリカ空軍首脳も公開された機体に対抗し得る機体を自軍に保有していないと考え、ソ連の爆撃機に加え、戦闘機にも危機感を募らせていった。

空軍での制空戦闘機の検討時期に、各方面のキーマンからファイター・マフィアと呼ばれる少人数のグループが出現していた。その中の一人、ジョン・ボイドは、自らのF-100による戦技教官としての経験の体系化とエネルギー保存則に基づいた空中(空戦)機動の理論であるエネルギー機動性理論を基にした判断により、F-Xの最初の提案要求(RFP)を却下し、最終版に改定した[注釈 3]

空軍は1967年8月にマクドネル・ダグラスおよびジェネラル・ダイナミクスの2社と戦闘機に関する6ヶ月の概念作成契約を締結した。

モスクワ航空ショーの翌年の1968年9月に、アメリカ空軍は国内の航空機メーカー8社と研究契約を結びRFPを出した。RFPの主な内容は以下の通りであった。

マッハ0.9、高度30,000フィートにおける高G機動で異常振動を生じない

上記空力特性を持つ翼を使い、広い飛行速度高度域で充分なエネルギー/運動能力を持つ

空中給油、または増槽のみで大陸間の長距離回送飛行が可能

搭載兵器は全任務に対して一人で操作可能

現実的な空対空戦闘を想定して4,000飛行時間の疲労寿命の安全係数を4として試験で証明する

最新の技術を利用した操縦席艤装を行い、特に近接格闘戦ではヘッドアップディスプレイを利用する

理論整備工数は1飛行時間あたり11.3人・時

構成機器の平均故障時間は上記整備工数内で対応

操縦席の視界は360°確保すること

主エンジンは機内設備のみで起動できること

機体構造、電気、油圧、操縦装置は戦闘状況下で無事に基地に帰投できる高度の生存性を持つ

対戦闘機戦闘装備状態の総重量は40,000ポンド(約18.1トン)級

サブシステム、構成部品、装備品は少なくとも試作品による実証済みのものに限る

最大速度は高空においてマッハ2.5

自機よりも低高度の監視能力を持つ長距離パルス・ドップラー・レーダーを備える

これらに加え、試作競争は実施しないこととしていた。

1968年12月、提出された各社案を基にマクドネル・ダグラス、フェアチャイルドノースアメリカン・ロックウェルの3社を選出して、詳細提案のための6ヶ月の研究契約を結び、各社は期日通り設計案を提出した。フェアチャイルド社案は、胴体の両側の変形デルタの主翼の半幅にエンジンナセルを置き、二次元型空気取入口から排気口を一線上に配置した、双発一枚垂直尾翼の機体であった。ノースアメリカン・ロックウェル社案は、オージー翼を持つブレンデッドウィングボディ構成の胴体下に二次元型空気取入口を付けた、胴体内並列双発一枚垂直尾翼の機体だった。

これらに対しマクドネル・ダグラス社案の機体は、前縁45度というそれほど大きくない後退角を持つ、広い面積の主翼を持っていた。これは当時の超音速戦闘機には、まず採用されることのないものだった[注釈 4]。この時、マクドネル・ダグラス社は37,500ページにも及ぶ文書を提出、設計には大型計算機を用いて数千種類の機体形状を検討していた[4]
原型機発注原型機(S/N 71-0280)
量産機とは主翼先端及び水平尾翼の形状が異なる

1969年12月にアメリカ空軍は、マクドネル・ダグラス社と開発契約を結んだ。設計主任はジョージ・グラーフ(George Graff)、空力担当にはドン・マルバーン(Don Malvern)が就任した[5]。また、セントルイスの工場では2基の空対空戦闘シミュレーターが開発され、研究に用いられた。本開発では900時間以上の設計改善が行われ、風洞実験では100種類以上の主翼形状の試験が行われた[4]

F-4は双発でありながら、片方のエンジンの被弾後に両エンジンが停止したり、火災で墜落する事例が見られた[4]。これを教訓にF-15ではエンジン間の縦通材などとして、エンジン周りにチタンを多用して耐熱性や強度を確保し、さらには消火システムを充実させ、燃料タンク配置にも配慮が払われた[6]

エンジンの開発はプラット・アンド・ホイットニーゼネラル・エレクトリックの提案から、1970年3月にプラット・アンド・ホイットニーがF100ターボファンエンジンの開発契約を結んだ。初期推力試験は1972年3月末までに終了し、1年後には型式証明を取得するための試験を終了させた[6]


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