F-117_(航空機)
[Wikipedia|▼Menu]
1975年8月にノースロップおよびロッキード社が招聘され、XST:Experimental Survivable Testbedのプランが提示された。これに応じてロッキード社スカンクワークスのトップであったディック・シーラーは電磁気学のスペシャリストのデニス・オーバーホルザーに"見えない戦闘機"の開発が可能であるかどうか打診。オーバーホルザーは可能であるとの見解を示し、コードネーム「Echo1」と言われるレーダー波の物体表面での反射を計算するソフトウェアを作り上げ、引退していたスカンクワークスの数学者であったビル・シュローダーからのアドバイスと、50年前のソビエト連邦でピョートル・ユフィンチェフによって発表されていた電磁波の進行方向を反射面の形状から予測する論文を基にプロトタイプ機を開発した[2]

ノースロップとロッキード両社のプロトタイプは小型の単座式という共通点はあったが外観は大きく異なり、ノースロップ社の物はレーダー波の乱反射を低減させるために丸みを帯び機体に鋭角を生じさせない形状で、当時からサンディエゴのシーパークで有名だったシャチに似ていることから"Shamu"とあだ名されたのに対し、ロッキード社の物は当初からレーダーを特定方向にのみ反射させるために角張った形状を持っていた。軍配はロッキードに上がり、1976年の4月から開発が開始された[3]。多面体から構成された機体の形状はその飛行特性を危惧されたが、風洞での実験では予想外に良好な結果が得られた[4]
開発時の考慮事項
ロッキード社によれば、F-117を開発する際に以下の点が考慮された。
目視による発見

レーダーによる探知

飛行時の騒音

自身からの電波放射

赤外線による探知

排気ガスや飛行機雲やボルテックスによる発見
ステルス性能を語るとき2.と5.が注目されがちだが、他の性能も必要とされる。1.に関しては機体を黒色に塗り夜間のみ飛行する、4.に関してはレーダーを搭載せず、離陸後は無線交信も行なわない、6.に関しては雨天を含む高湿度環境で飛行しない、といったものである。F-117を昼間作戦に投入する実験として灰色迷彩に塗装した"デイホーク"による試験飛行も行われたが、結局運用コストに見合うだけの成果を得られず、全機退役への道を歩むこととなった。
ハブ・ブルーHave BlueF-117との各所寸法の違いの比較詳細は「ハブ・ブルー (航空機)(英語版)」を参照

試作機の開発には、国防高等研究計画局の予算から約3,000万ドルが支出された。性質上、この予算は公にする必要がないものとされた。試作機には「ハブ・ブルー(Have Blue)」のコードネームが与えられ、飛行テストではT-2Bバックアイゼネラル・エレクトリック社製のJ85-GE-4Aエンジンを転用した。

最初の飛行空力実験機HB1001(1号機)は、J85-GE-4Aエンジンの排気口からの赤外線放射を最小にすることに主眼を置いて設計された。細長い形状を持っていたが、全体的に細身で大きさが量産機の約60%の縮小モデルであったため重量は4,173-5,669Kgと爆撃機としては軽く、垂直尾翼が内側に傾斜する等、量産型とは形状がやや異なる。F-5の着陸用ギアやF-16FBWが転用されたことで、試作機2機に要した予算は3,700万ドルに抑えられたという。

ハブ・ブルーのスペックは以下の通り。

全長:38ft(約11.6m)

全幅:22ft(約6.7m)

主翼前縁後退角:72.5度(F-117は67.5度)

総重量:約12,000ポンド(5,433kg)級

乗員:1名

飛行試験と試作機の損失

1977年11月4日に、ロッキード社のバーバンクの施設で最初のエンジンテストが行われた。その後も空港が閉鎖された真夜中に限定したうえで、カモフラージュ用のネットがかぶせられて実験が繰り返された。近隣からはその騒音による苦情があったが機密は保持され、後にネバダグルーム乾湖にその場は移された。

契約締結からわずか20ヶ月しか経っていない1977年12月1日に初飛行テストが敢行される。35回のテスト飛行が無事行われたが、1978年5月6日に行われた36回目のテストで着陸に失敗。右主脚が途中まで引き込み、ロックができないと判断されたため、高度3,000mまで上昇したのち燃料を完全に消費しパイロット射出座席により脱出した。エンジンが停止したHB1001は、背面姿勢のまま地上に落下し大破した。また、ロッキード社のテストパイロットのビル・パークは射出座席が正常に分離せず降下時に重傷を負い、引退を余儀なくされた。

事故前から製作が始まっていた2機目のHB1002が、1978年7月20日(同年3月から4月には既に初飛行を行なったとの説あり)に初飛行し、試験飛行を引き継いだ。後に52回の飛行が行われたが53回目の飛行中に油圧系統の故障によりエンジンから発火、炎上した。この2機の破損した実験機は極秘裏に処分され、F-117およびB-2といったステルス機が公開されるようになった現在でもトップシークレット扱いで、わずかに公開された写真を除き、その詳細は不明のままである[3]

両機とも失われたハブ・ブルーであったが、飛行試験中はアメリカ空軍が誇るE-3早期警戒管制機ですら極めて近距離での状況以外、探知はできなかったなど、ステルス機としての性能を見せつけた。

1978年11月、アメリカ議会は極秘に実用型ステルス戦闘機の開発を承認、本格的な開発に移行した。
F-117の誕生爆弾を投下するF-117

実用機であるF-117の初飛行は、1981年6月18日にグルームレイクで行われた。ロッキード社はF-117を、カリフォルニア州パームデールのスカンクワークスがアメリカ空軍工場42号(ロッキード工場10号)で製作した後、極秘にグルームレイクに輸送、組み立てを行なっている。

機体の形状は、レーダー波を特定方向に反射させる反射角を持たせるためひし形になっている。当時のコンピュータの能力では曲面のシミュレートは事実上無理があり、シミュレーションが容易な角ばった機体となった。航空力学的には飛行に不向きな形状であるため、飛行姿勢は4重に管理されたデジタル・フライ・バイ・ワイヤによりコンピュータ制御されることにより初めて飛行可能な機体といえる。

直線基調の機体であり最初に公表された1枚きりの写真が機体各部の角度を読み取りにくい方向から撮影されていたため、それを元に作成された非公式な三面図は、実機とはかなり違う寸詰まりなものとなっていた。のちに正式な三面図が発表されて、やっとその間違いに気付くほど、当時は情報公開が少なかった。
部隊編成

F-117の実機が完成すらしていなかった1980年1981年説あり)から、既にアメリカ空軍戦術航空軍団直轄部隊としてトノパー・テストレンジ(Tonopah Test Range:TTR)にステルス戦闘機部隊「第4450戦術群(the 4450th Tactical Group)」を編成している。この第4450戦術群の下に第4450戦術戦闘飛行隊を編成し、F-117の随伴機(英語版)A-7D攻撃機を配置した。

当初はF-16の配置が予定されたが、機体価格の高さからA-7Dに決定された。これは同時に、まだステルス機の存在が秘密であった初期のころは第4450戦術部隊を"A-7飛行隊"として秘匿することにも役立った。カモフラージュとして用いられたA-7Dは後により安い経費で維持可能なT-38タロンに置き換えられたが、転換訓練を行なうパイロットはA-7Dで慣熟飛行を行なっていた[3]

最初のF-117の配属が決定したのは1982年5月であり、ジェームス S. アレン大佐が指揮を執ることとなった。大佐は1983年8月23日の部隊によるF-117の初飛行も自身で行なっている。部隊は1983年10月28日に稼働したが、十分なF-117はまだ配備されていなかった。このためパイロットの飛行時間を維持することが課題となり、飛行特性が似ていると言われるA-7Dを使ってパイロットの飛行時間を延ばした。
公となったステルス機

1988年1月、アメリカの老舗軍事情報誌である『Armed Forces Journal』(英語版)は同月に発行された号[5]にて「"F-19"として存在が噂されている機体は実際に存在しているが、形式名はF-19ではなく"F-117"であり、“ナイトホーク(Night Hawk)”というニックネームも与えられている」との記事を掲載した。

それまでも1980年代を通して「アメリカ軍ではレーダーに映らない特殊な性能を持った戦闘機が"F-19"の名称で極秘に開発されている」として様々な推測や憶測がマスメディアを中心に語られていたが(後述「#「F-19」とプラスチックモデル」の節参照)この時期になると、メディアに掲載される推測も多分に実態に迫ったものになってきており、更には並行して開発が進められていたATB(Advanced Technology Bomber. 先進技術爆撃機(B-2ステルス爆撃機として結実したもの)および新たなステルス戦闘機の開発計画であるATF(先進戦術戦闘機計画)の両計画が情報非公開の状態で進めることが難しい段階に進んでおり、B-2の公表も決断されていたため、既に実戦配備されているF-117の存在と併せて“ステルス機”についての情報を秘匿することが不可能だと判断したアメリカ国防総省は、情報の公開を決定した[6]

ステルス機についての情報を公開するにあたり、国防総省は当初は発表時期を1988年10月内に予定していたが、この年は大統領選挙(1988年アメリカ合衆国大統領選挙)が行われるため、上院軍事委員会(SASC. United States Senate Committee on Armed Services)からは情報公開による政治的混乱を回避することが求められ、選挙の終了する同年11月8日以降が情報公開の時期として定められた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:104 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef