F・L・ルーカス
[Wikipedia|▼Menu]

F. L. ルーカス
F. L. Lucas
OBE

誕生Frank Laurence Lucas
(1894-12-28)
1894年12月28日
イギリス
イングランド ヨークシャー、ヒッパーホルム(英語版)
死没1967年6月1日(1967-06-01)(72歳)
イギリス
イングランド ケンブリッジ
職業学者、作家、評論家
最終学歴ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
ジャンルエッセイ、文芸評論、小説、詩、戯曲、ポレミック、紀行文
代表作Style (1955), The Complete Works of John Webster (1927)
主な受賞歴OBE (1946); ベンソン・メダル(英語版) (1939)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

フランク・ローレンス・ルーカス OBE (Frank Laurence Lucas, 1894年12月28日 ? 1967年6月1日) はイギリスの古典学者、文芸評論家、詩人、小説家、劇作家、政治論客、ケンブリッジ大学キングス・カレッジフェロー、そして第二次世界大戦時のブレッチリー・パークにおける情報将校である。

彼はT・S・エリオットの『荒地』に対して1923年に書いた酷評と[1] 、優れた散文を書くためのガイドブックとして高く評価されている『スタイル (文体)(英語版)』 (1955年、1962年改訂)[2] の著者として知られている。彼の『悲劇とアリストテレスの「詩学」との関係』 (1927年、1957年大幅改訂) は、50年以上にわたって標準的入門書として使われた[3]。彼のもっとも重要な学術的業績は、4巻にわたる旧綴りの『ジョン・ウェブスター全集』(1927年)、ヘイズリット(英語版)以降のジェームス一世時代の戯曲集 (1857年) などである[4]。エリオットはルーカスのことを「完璧な注釈者」と呼び[5][note 1]、新しいウェブスター全集 (1995年‐2007年) をケンブリッジ大学出版局から出した後継のウェブスター研究者は、ルーカスに恩義を感じている[6]

ルーカスはまた1930年代の反ファシズム運動でも知られ[7][8] 、戦時中のブレッチリ―・パークでの業績により大英帝国勲章 (OBE) を受賞したことも良く知られている[9]
生涯
青年期と戦争1917年2月25日のイギリス軍進軍時に撮影されたソンム県ミラウモン (1917年3月)。公式戦史によると、「2月22日午後、ミラウモン南方の頂でイギリス軍の散弾が背後で炸裂する中、王立西ケント第7大隊F. L. ルーカス中尉が大胆で機知にとんだ偵察を行い」、これはヒンデンブルク線(英語版)へのドイツの撤退の最初の兆候を知らせるものであった[10]F・L・ルーカス、ローヤル・ウェスト・ケント連隊第7大隊2尉、1914年

F. L. (ピーター) ルーカスはブラックヒース(英語版)で育ち、父親のF. W. Lucas (1860年?1931年)[11][12] が校長をしていたコルフ・スクール(英語版)で教育を受けた。1910年からはラグビースクールで、引退前のソポクレス学者ロバート・ホワイトロー (1843年?1917年) の個人指導を受けた[13][14]。ルーカスはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの奨学生となり、1913年に古典学部トライポス制度(英語版)の奨学金を受け、1914年にはピット奨学金(英語版)と[15]、ポーソン賞(英語版)を獲得した[16]。1914年1月にはジョージ・エドワード・ムーアの影響[17]を受けてケンブリッジ使徒会会員に選ばれたが、それは戦争前の最後の選出だった[18]

ベルギー強奪(英語版)の運命をケンブリッジが握っていると考えた彼は[19]、1914年10月19歳のときに志願し[17]、11月には入隊し[20]、1915年からは王立西ケント連隊(英語版)第7大隊の少尉としてフランスに赴いた。1915年8月から彼はフリクールとマメッツの向かいにあるソンムの塹壕にいた。1916年5月に榴散弾で負傷した。その年の10月ジョン・メイナード・ケインズ宛に、「物事の巨大な気まぐれをただ眺めながら、キュクロープスの口の中で消えてしまう自分を眺めている」と彼は書き送っている[21]。1917年1月に彼は中尉として前線に戻り[22] 、2月17日アンカー作戦(英語版)によりグランクール(英語版)近くの戦場に赴き、2月22日に殊勲報告書に名を挙げられたものの、3月4日に毒ガスを浴びた[23]

彼は17か月を戦時病院で過ごした。1917年9月までに彼は、名誉と正義の大義は勝利の渇望のために失われた、と感じた[24] (「我々は条件を提示せずに戦い続ける用意ができすぎていた」[25])。イギリスのチャタム工廠で駐屯地勤務が可能と認められ、彼は使徒仲間のケインズの助力でフランスへ戻り[18] 、1918年8月から休戦まで彼はイギリス情報部隊(英語版) (イギリス第3軍(英語版)本部) の参謀中将として、バパウムとル・ケノワ近くでドイツ軍捕虜の取り調べに当たった。休戦直後の1918年11月、スペインかぜの流行で肺の傷が再び開いてしまい、彼は命の危険にさらされたった[note 2]。1919年1月に彼はケンブリッジに戻った。 湖畔を歩きながら「[1919年の]復活祭の朝キッズティパイク(英語版)で、ホーズ湖とヘイズ湖の間に、山々の雪峰の上に春のまばゆい太陽が昇り、フェアフィールドからブルカトラまで、もし私が神秘主義者なら神秘的体験と名付けるほどの、法悦と酩酊の瞬間がもたらされた」[26]
業績

学業を再開したルーカスは、古典学の学長メダルとブラウン・メダル(英語版) (1920年) を獲得し、1914年から中断していた使徒会の会合を復活させ、会の書記となり19の論文を寄稿した[27]。1920年、彼は学位を取得するより前に、キングス・カレッジのフェローに選ばれ[28]、ケインズは学位取得試験前夜にセバスチャン・スプロット(英語版)と共に彼のギリシャ旅行の費用を支払った[29]。彼は優等学位(英語版)に輝き[note 3] 、1920年10月から古典学の講師としてキャリアを開始した。1921年の春、彼は3か月をアテネ・ブリティッシュ・スクール(英語版)の学生としてギリシャで過ごし、テッサリアに於けるファルサルスの戦い (後述のファルサルスを参照) の跡地を調査した。ケンブリッジに戻ると彼は英語学トライポス (1919年制定) の教員に転身した[30][31]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef