1980年代のJ-POP黎明期の代表的アーティストの一人とされる[5]。1980年にメジャー・デビュー。歌謡曲とニューミュージックをクロスオーバーした音楽性で活動し、1980年代中頃には「RCA三人娘」として大貫妙子、竹内まりやと並び称された。
テレビコマーシャルソングや番組主題歌などの提供曲も含め多くのヒット曲があり、代表曲として「う、ふ、ふ、ふ、」「音楽のような風」「12月のエイプリル・フール」[6][7]、提供曲としては高見知佳「くちびるヌード」、香坂みゆき「ニュアンスしましょ」が知られる。最近では土岐麻子「Gift ?あなたはマドンナ?」がある。
1987年のイギリス移住[2]を経て音楽性が変化し、帰国後も1990年代以降は商業音楽の世界から距離を置いている。また同時期からは精神世界(スピリチュアリズム)や代替医療・ヒーリング等に傾倒し、現在は催眠療法セラピストとして音楽をベースにしたワークショップの開催や心理カウンセリングを行うなど、音楽の世界にとどまらない活動も展開している[3]。 東京都世田谷区に生まれ育つ[1]。3歳でピアノを習い始める。クラシック音楽やCMソングなどテレビから流れる音楽を聴いて育った[8]。芸名の由来となった子供時代のあだ名「エポ」は、人が「えーこちゃん」と呼ぼうとしたときに、舌がもつれて「えーぽちゃん」と呼んだことがきっかけで「エポ」と呼ばれるようになったという[9]。 1976年3月、世田谷区立新星中学校卒業[10]。同年4月、東京都立松原高等学校に入学。音楽関係者では、高校の先輩に清水信之、後輩に佐橋佳幸がいる(渡辺美里も同校出身)。 同高校在学中、「Laugh」というバンドを組んでピアノとコーラスを担当。「Laugh」はニッポン放送のコンテスト番組『ライオン・フォーク・ビレッジ』に出場して優勝し、これを契機に多くの音楽業界関係者に会ったことで、自身も音楽の仕事をしたいと思うようになる[8]。 洋楽のカーペンターズ、ザ・ビーチ・ボーイズに傾倒し、A&Mレコード系のアーティストの音楽を「きれいなメロディ」として「このような音楽を作る作家が好き」と述べていた[8]。また、シンガーソングライターに憧れるきっかけとなった歌手として、小坂明子ややまがたすみこを挙げている[8]。 1979年3月、東京都立松原高等学校卒業。高校卒業時には東京女子体育大学への推薦入学が既に決まっており、そのまま順当に行けば体育教師になっていたはずだった[8]。同年4月、東京女子体育大学大学へ入学。当時は方向性がまだ決まっていなかったことから、昼は大学、夜はスタジオでのアルバイトという生活を3年ほど続けていた[8]。 大学在学中からセッションボーカルとして活動する。竹内まりやのシングル『SEPTEMBER』(1979年8月21日リリース)のコーラスを担当したほか、コーラスアレンジを実際に行った宮田茂樹の意向で、名目上はコーラスアレンジを担当したことにされた。 また、サントリー「サントリーレモン」のコマーシャルソングとして作られた「大きいのが好き」(作詞:伊藤アキラ、作曲:大瀧詠一)のボーカルを担当。コーラスはシャネルズ(後のラッツ&スター)で、後に『NIAGARA CM SPECIAL』に収録された後、『大瀧詠一 Song Book 1 大瀧詠一 作品集 Vol.1』にEPO WITH シャネルズのアーティスト名で収録された[11]。コマーシャルソングとしては実際には使用されなかった。 大貫妙子、竹内まりやをプロデュースした株式会社RVC(RCAレコード)の音楽プロデューサーの宮田茂樹は、EPOデビューの経緯についてこう語っている[1]。 1978年の冬、宮田はラジオ局の友人から「佐藤栄子」という都立高校の女子高校生を紹介され、電話で連絡を取り世田谷区三宿の喫茶店で会うと、彼女は「こんにちは、エポって呼んでください」と明るく元気に挨拶したという[1]。彼女は「シュガー・ベイブが大好き」と宮田と2時間話し込み、宮田が「レコードを作りませんか」と持ちかけたところ、すでに東京女子体育大学への推薦入学が決まっているため制作の時間が取れないと言われたという[1]。その後、宮田は彼女のデモテープを聴くうちにふと「ダウンタウン」という言葉が浮かび、デビュー・アルバムのA面1曲目をシュガー・ベイブの「DOWN TOWN」、B面1曲目をペトゥラ・クラークの「DOWN TOWN」(作曲:トニー・ハッチ)にするというアイデアを思いつく[1]。「世田谷生まれで世田谷育ちのエポは、ダウンタウン・ガールではないんですが、走り始めた妄想は止められません」と、宮田は当時を回顧している[1]。 1980年3月21日、シュガー・ベイブのカバーシングル『DOWN TOWN』(作詞:伊藤銀次、作曲:山下達郎、編曲:林哲司・清水信之)でデビュー。EPO自身がシュガー・ベイブのファンだったことから、当時同じレコード会社所属だった山下達郎に直接依頼してカバーが実現した[8]。 宮田が所属していたRCA邦楽部では「ポスト竹内まりや」としてEPOを売り出していたが、山下達郎の事務所関係者を通してフジテレビのスタッフから、1981年5月16日から放送開始のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』のテーマソングとしてEPOの「DOWN TOWN」を使いたいと依頼され、同番組のエンディングテーマとして採用されることとなった[1]。
人物・来歴
デビューまで
デビューと『オレたちひょうきん族』