大貫妙子、竹内まりやをプロデュースした株式会社RVC(RCAレコード)の音楽プロデューサーの宮田茂樹は、EPOデビューの経緯についてこう語っている[1]。
1978年の冬、宮田はラジオ局の友人から「佐藤栄子」という都立高校の女子高校生を紹介され、電話で連絡を取り世田谷区三宿の喫茶店で会うと、彼女は「こんにちは、エポって呼んでください」と明るく元気に挨拶したという[1]。彼女は「シュガー・ベイブが大好き」と宮田と2時間話し込み、宮田が「レコードを作りませんか」と持ちかけたところ、すでに東京女子体育大学への推薦入学が決まっているため制作の時間が取れないと言われたという[1]。その後、宮田は彼女のデモテープを聴くうちにふと「ダウンタウン」という言葉が浮かび、デビュー・アルバムのA面1曲目をシュガー・ベイブの「DOWN TOWN」、B面1曲目をペトゥラ・クラークの「DOWN TOWN」(作曲:トニー・ハッチ)にするというアイデアを思いつく[1]。「世田谷生まれで世田谷育ちのエポは、ダウンタウン・ガールではないんですが、走り始めた妄想は止められません」と、宮田は当時を回顧している[1]。
1980年3月21日、シュガー・ベイブのカバーシングル『DOWN TOWN』(作詞:伊藤銀次、作曲:山下達郎、編曲:林哲司・清水信之)でデビュー。EPO自身がシュガー・ベイブのファンだったことから、当時同じレコード会社所属だった山下達郎に直接依頼してカバーが実現した[8]。
宮田が所属していたRCA邦楽部では「ポスト竹内まりや」としてEPOを売り出していたが、山下達郎の事務所関係者を通してフジテレビのスタッフから、1981年5月16日から放送開始のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』のテーマソングとしてEPOの「DOWN TOWN」を使いたいと依頼され、同番組のエンディングテーマとして採用されることとなった[1]。実際に番組で使用されたのは放送2回目以降である[1]。続いてEPOの楽曲「土曜の夜はパラダイス」[12]も同番組のエンディングテーマとして使用された[1]。
『オレたちひょうきん族』は人気お笑い番組となり、それにより楽曲とEPOの知名度も急上昇した[1]。その縁から、同番組でビートたけしが演じた「タケちゃんマン」コーナーのテーマ曲「THE TAKECHANマン(タケちゃんマンの歌)」の作曲も担当(佐藤エポ子名義、作詞:大岩賞介)[13]。番組のアイキャッチも手掛けた。また同じフジテレビのお笑い番組『THE MANZAI[要曖昧さ回避]』でも『ひょうきん族』のスタッフによりEPOの楽曲が採用されている[1]。タケちゃんマンの歌については「タケちゃんマン#テーマ曲」を参照
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}EPOは『オレたちひょうきん族』に出演したこともあったが、本人は当時この番組に出演することが精神的に苦痛だったことを後に明かしている。そのため同番組の「ひょうきんベストテン」では笑顔ではなく淡々と歌っていた。[要出典] 1981年には、竹内まりやの独身時代最後のアルバム『PORTRAIT』(10月21日リリース)にもバックグラウンドボイスとして参加した。 1981年からラジオのテーマソングも手掛け、TBSラジオ系列の深夜放送ラジオ番組『パックインミュージック』のオープニングテーマソング・ジングルを担当(1982年7月31日まで、パックインミュージック#オープニング テーマを参照)。1982年10月からは『オールナイトニッポン』のジングルも担当した(1986年4月12日まで)。 デビュー当時はグラビア雑誌に水着姿で登場したり[14]、体育大学に在籍したためレコード会社対抗運動会でRVC代表として活躍したこともあった。EPOは当時の自分について「私もアイドルの枠組に入れられていたみたい」と述べている[8]。 1983年2月、資生堂化粧品春のキャンペーン・コマーシャルソングとして発表した「う、ふ、ふ、ふ、」が大ヒット。同曲は資生堂キャンペーン期間の終了後もたびたび別の商品のCMソングとして採用され、EPOを代表する一曲となった。 楽曲の提供も開始し、1984年2月に高見知佳に提供した「くちびるヌード」も、資生堂春のコマーシャルソングに使用される。後にEPOもアルバムで「くちびるヌード・咲かせます」としてセルフカバーした。同年8月に香坂みゆきに提供した「ニュアンスしましょ」(作詞:大貫妙子、作曲:EPO)が、資生堂秋のCMソングに採用された。 しかし、これらのヒット曲によって定着した「ポップシンガー」のイメージが一時期は重荷でもあったと、本人が後年語っている。[要出典] 1987年8月から9月にかけて、NHK『みんなのうた』で「バナナ村に雨が降る」の歌唱が放送される。作詞は銀色夏生、作・編曲は乾裕樹からの提供曲であった。1993年には同番組で自作曲の「琥珀の魔法」を歌唱している。 1987年9月、イギリスへ移住してロンドンで活動し、1990年にヴァージン・レコードと契約[2]。アルバム『FIRE & SNOW』、シングル2作品をリリースした。 1991年3月に帰国し、東芝EMIと契約[2]。帰国後はコマーシャリズムと距離を置いた活動を継続している。 1990年代には、坂田明、巻上公一、鼓童、マルコス・スザーノ、山海塾、Choro Clubなどと共演[2]。またミュージカルへの出演や妊婦のための『胎教ライブ』、沖縄タイムスでのエッセイ『唐獅子』連載などを手掛ける[2]。 1990年代以降は現在は催眠療法セラピストとしても活動しており、障害者・高齢者・子供向けなどのワークショップを開催し、全米ヒプノ協会認定催眠療法セラピスト、全米NLP協会認定マスター・プラクティショナー、全米タイムラインセラピーマスター・プラクティショナーの肩書を持つ[2][3]。 2005年12月には、EPO25周年記念クリスマスライブを東京・六本木のライブハウス「STB139 スイートベイジル」(2014年5月25日をもって休業[15])にて開催した[2]。
資生堂CM曲がヒット
渡英と音楽性の転換