ENIAC
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紙上でプログラムが完成したら、次にパッチパネルでスイッチ群やケーブルの配線を変更することでプログラムをENIACに設定する必要があり、それに数日かかる。そして設定ミスがないかを検証・デバッグするのに、ENIACの「シングルステップ」動作機能を活用する。
経緯

ENIACのスポンサーは弾道研究所だったが、プロジェクト開始から1年後、ロスアラモス国立研究所マンハッタン計画に従事していた著名な数学者ジョン・フォン・ノイマンがこの計算機のプロジェクトに気付いた[16]。ロスアラモス研究所はENIACに深く関与するようになり、最初にENIACで計算した問題も砲撃射表ではなく水素爆弾に関するものだった[6]。その計算の入出力には約100万枚のパンチカードを必要とした[17]

1997年、ENIACのプログラミングを担当していた6人の女性がWomen in Technology International(WITI)の殿堂入りを果たした[18][19]。1946年当時の呼び名で言えば、キー・マクナルティベティ・ジェニングスベティ・スナイダーマーリン・ウェスコフフラン・バイラスルース・リターマンの6人である[20][21]。ジェニファー・S・ライト(英語版)のエッセイ When Computers Were Women では、計算機科学史で女性の果たした役割が軽視されてきたことの概略とENIACでの女性の果たした役割について書かれている[22]。また、LeAnn Erickson による2010年のドキュメンタリー映画でもENIACのプログラマ達が果たした役割を描いている[23]

ENIACの設計は一種独特であり、決して他では採用されなかった。1943年に設計が完了しているため、その後間もなく発展した技術革新を採り入れておらず、特にプログラム内蔵能力を欠いていた。エッカートとモークリーはより単純で強力な新設計を開始し、それが後にEDVACと呼ばれるようになる。1944年、エッカートはデータとプログラムの両方を格納する記憶装置(水銀遅延線)を説明する文書を書いた。ペンシルベニア大学ムーアスクール(工学部)のコンサルタントだったジョン・フォン・ノイマンは、プログラム内蔵方式が議論され構築されたミーティングに参加している。フォン・ノイマンは、そのミーティングでの議論をまとめたような内容の文書である、EDVACに関する報告書の第一草稿(First Draft of a Report on the EDVAC)を書いた。同文書は学会の論文や書籍のような手続きを経て出版されたものではなく、(知られている限りでは)ノイマンによる手書きの草稿と、それを元にしたタイプライタによる原稿がある。後者はENIACの管理責任者だったハーマン・ゴールドスタインがそのコピーをいくつかの政府機関や教育機関に配布し、また当時の何人かの研究者(たとえばイギリスのモーリス・ウィルクス)が何らかの機会を得て読んでいる。それにより各地で新世代の電子計算機を構築することへの関心が高まり、イギリスのケンブリッジ大学のEDSACアメリカ国立標準局SEACなどが生まれることになる。

1948年以降、ENIACにもいくつかの改良が施され、例えば簡単なリードオンリーのプログラム格納機構が加えられた[24]。これは本来数表を設定するファンクションテーブルをプログラムを格納するROMに流用したもので、ENIACの特許にも含まれているアイデアである。また、弾道研究所のリチャード・クリッピンガー(ドイツ語版)も独自に提案していた。フォン・ノイマンの助力を得てクリッピンガーは実装すべき命令セットを考えた。クリッピンガーは3アドレス方式を考えていたが、フォン・ノイマンはより実装が簡単な1アドレス方式を提案。6番のアキュムレータの3桁をプログラム・カウンタとして使い、15番のアキュムレータを主アキュムレータとし、8番のアキュムレータをファンクションテーブルからデータを読み込む際のアドレスポインタとして使用する。他のアキュムレータの大部分(1-5、7、9-14、17-19)はデータメモリとして使用する。ENIACでのプログラム内蔵方式のプログラミングはベティ・ジェニングス、クリッピンガー、アデル・ゴールドスタイン(ハーマン・ゴールドスタインの妻)が行った。1948年9月16日、プログラム内蔵方式でのENIACが初公開されている。このときのプログラムはフォン・ノイマンが基本設計しアデル・ゴールドスタインがプログラミングした。この改造によってENIACの性能は6分の1となり並行計算能力も失われたが、何日もかかっていたプログラミング作業が数時間に短縮され、性能低下を考慮しても価値のある改造だった。また、計算は電子式だが入出力はパンチカードによる電気機械式であり、この性能差の影響も分析した。それによると、実際の問題は例外なくI/Oバウンド(英語版)(入出力が性能のボトルネックとなる状態)であり、本来の並行計算能力を使わない場合でもそれは変わらなかった。プログラム内蔵方式に改造して性能が低下してもI/Oバウンド状態は変わっていない。1952年、高速シフタが追加され、シフト性能が5倍になった。1953年7月、100ワードの磁気コアメモリが追加され、数値表現を3増し符号二進化十進表現とした。この拡張メモリをサポートするため、新たなファンクションテーブル・セレクター、メモリアドレス・セレクター、パルス成形回路が加えられ、プログラミング機構にも3つの新命令が加えられた。
他の初期のコンピュータとの比較詳細は「計算機の歴史」を参照

機械式および電気式の計算機械は19世紀から登場しているが、ここでは現代的な(計算理論の用語で「万能」(universal)である)電子式コンピュータが誕生する前夜と言える、1930年代から1940年代の計算機械から話を始めることとする。

1939年から1940年にかけて、ベル研究所ではジョージ・スティビッツリレー計算機 Complex Number Calculator を開発し、1940年にはダートマス大学とベル研究所を電話回線で結び、遠隔からその計算機を操作してみせた[25]

ドイツではコンラート・ツーゼZ3を設計(1941年5月には稼働)。これが世界初のプログラム可能な計算機で二進数を使っていたが、リレーによる電気機械式である。


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