E.T.
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だが公開後も交渉を続けた結果、スピルバーグは浪川の起用を条件に制作許可を出したため、この日本語吹替が作られたという[7]


DVD版:2002年11月8日発売の「20周年アニバーサリー特別版 DVD」に初収録。

スタッフ

監督/製作:
スティーヴン・スピルバーグ

製作:キャスリーン・ケネディ

脚本:メリッサ・マシスン

編集:キャロル・リトルトン

撮影:アレン・ダヴィオー

SFX/20周年記念特別版公開時の修復:ILM

SFXスーパーバイザー:デニス・ミューレン

アニメーション監督:コリン・ブレイディ

特殊効果:カルロ・ランバルディ

パントマイム:カプリース・ローズ

音楽:ジョン・ウィリアムズ

日本語版

VHS・Blu-ray版DVD版
演出小山悟
山田智明
翻訳戸田奈津子
調整小野敦志
制作東北新社

製作
開発

1960年に両親が離婚した後、スピルバーグは空想上の宇宙人を仲間にしてその空白を埋めた。空想上の宇宙人について、「(自分には)いなかった兄であり、(自分には)もういないと思っていた父であるかもしれない友人」だと語っている[8]。1978年、『Growing Up』というタイトルの映画を4週間で撮影すると発表した。このプロジェクトは、『1941』(1979年)の遅延のために頓挫したが、子供時代についての小さな自伝的映画を作るというコンセプトは、彼の心に残ることになった[9][10]。また、『未知との遭遇』(1977年)に続く作品を考え、ジョン・セイルズと計画していた、悪意のあるエイリアンが家族を恐怖に陥れるダークなプロジェクト『Night Skies』の開発にも着手した[9]

チュニジアでの『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)の撮影は、家族や友人から離れたスピルバーグに孤独感を与え、幼少期の創作物の記憶を蘇らせた[9]。スピルバーグは脚本家のメリッサ・マシスンに『Night Skies』の話をし、唯一の友好的なエイリアンであるバディが自閉症の子供と仲良くなるという、失敗したプロジェクトのサブプロットを開発した。脚本の最後のシーンで彼が地球に捨てられたことから、『E.T.』のコンセプトが生まれた[10]。彼女は『E.T. and Me』と題した初稿を8週間で書き上げ[10]、彼はそれを完璧だと考えた[11]。脚本はさらに2回のドラフトを経て、エリオットの友人である「エディ・ハスケル」風の人物が削除された。チェイス・シーケンスも作成され、E.T.が酔っ払うシーンを持たせることも提案した[9]

『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』のプロモーションが行われていた1981年初夏、『未知との遭遇』の続編を想定した『Night Skies』を監督と一緒に開発することになったコロンビア・ピクチャーズは、脚本について話し合うためにスピルバーグと会った。しかし、コロンビアのマーケティングと研究開発の責任者であるマーヴィン・アトノフスキーは、この作品は主に若い子供たちにアピールするだろうと考え、商業的な可能性は限られていると結論づけた[12]。コロンビアのワールドワイドプロダクションの社長であるジョン・ヴェイチも、この脚本は十分な観客を惹きつけるほど良いものでもなければ、怖いものでもないと感じていた。アトノフスキーとヴェイチの助言により、コロンビアのCEOであるフランク・プライスはこのプロジェクトを見送ったため、スピルバーグは当時ユニバーサル・スタジオの親会社であったMCAの社長であるシド・シーンバーグにアプローチした[12][13]。 スピルバーグは、コロンビアから『E.T.』の脚本を取得するようシーンバーグに伝え、100万ドルで取得し、プライスとの間で映画の純利益の5%をコロンビアが保持するという契約を結んだ。ヴィッチは後に、「(1982年には)あの映画で、我々のどの映画よりも多くの利益を上げたと思う」と回想している[12]
プリプロダクションE.T.のデザインを手がけたのは、イタリアの特殊効果アーティスト、カルロ・ランバルディ


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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