E・H・エリック
[Wikipedia|▼Menu]

E・H・エリック
本名岡田 泰美(おかだ たいび)
生年月日 (1929-08-01)
1929年8月1日
没年月日 (2000-08-17) 2000年8月17日(71歳没)
出生地 フランスニース
死没地 アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島
職業タレント俳優司会
著名な家族岡田眞澄(弟)
岡田美里(次女)
テンプレートを表示

E・H・エリック(E. H. Erick、本名:岡田 泰美(おかだ たいび)、1929年8月1日 - 2000年8月17日)は、日本で活躍した男性タレント俳優司会者。日本人の父とデンマーク人の母をもつ、ハーフタレント。弟は俳優・タレントの岡田眞澄。次女はタレントの岡田美里、長女・三女はいずれも一般人。
芸風

日劇でコメディアンとしてデビューし、コントから芝居まで何でもこなすマルチタレント、ハーフタレントの草分けでもある。日本語、英語、フランス語が堪能なことから、ビートルズ来日公演の司会やインタビューを始め海外タレントの来日公演にも多く携わり、芸能史に名を残した司会者として知られる。劇場公演、映画、番組、コマーシャル出演など、ハーフタレントとして成功を極めた。

外国出身の日本のタレントとして著名なロイ・ジェームスも芸能界に紹介したのはエリックであり、外国人タレントとして知られたイーデス・ハンソンとも頻繁に共演をしていた。
来歴

父親は日本人の画家の岡田穀(おかだ・みのる)、母親はデンマーク人のインゲボルグ・シーヴァルセン。フランスニースにて誕生。1941年に帰国し、終戦(1945年8月15日)は台湾で迎える。

その後、青山学院高等部からインターナショナルスクールの横浜セント・ジョセフ・カレッジを卒業。卒業後、外資系の舞台音響設備会社に入社、音響機器の仕事に従事し、日劇ミュージックホールの楽屋に出入りした際、日劇の関係者に誘われ、トニー谷泉和助と組んで1953年に24歳で日劇ミュージックホールでデビューする。トニー谷に「外人の顔をしているくせに、べらんめえの日本語が喋れて面白い。舞台でやってみないか」と気に入られ、日劇ミュージックホールの座長格だった泉和助の弟子を師匠と仰いで芸を学んだ。戦後の一時期には南道郎と漫才コンビも組むほどであった。日劇や大阪ミュージックホール、新宿コマ劇場などで芸能活動をしながら、映画やテレビ出演をこなし、NHKの看板番組であった「夢で逢いましょう」へのレギュラー出演をきっかけに、日本人離れした外見と日本のことに詳しい”へんな外人”として、E・H・エリックの名は日本中に知られることとなった。(NHKアーカイブス参照)

タレントとしてはCMや番組、ラジオ、映画への出演多数、特に小野薬品のタフマックEDのCMで耳を動かす芸を行い、以降、耳を動かす芸がトレードマークとなる。

また、英語フランス語に堪能なことから、音楽関係のコンサートや番組での司会として活躍し、日本テレビの看板番組であった歌のグランプリショーの初代司会、1966年ビートルズ来日公演日本武道館)では司会とインタビューを担当、赤坂の伝説のナイトクラブ「ニューラテン・クォーター」では11年間司会を務め、ナット・キング・コールナンシー・ウィルソンパット・ブーンダイアナ・ロスなど、名だたる海外のエンターテイナーを迎えた。

晩年はタレント業を控え、日本アムウェイ社の最高位販売員「クラウン・アンバサダー・ダイレクト・ディストリビューター」として活動、高額年収を得ていたことでも知られている。

2000年、パーキンソン病のためアメリカ合衆国ハワイ州マウイ島で死去。71歳没。弟の眞澄は自身に兄弟姉妹は兄一人しかいないことから「まるで片足を失ったような気分だ」と述懐していた。
家族・親戚関係

弟はタレント・俳優の
岡田眞澄

次女はタレントの岡田美里

孫娘はタレントの栗原菊乃小春姉妹(いずれも次女美里と美里の元夫堺正章の間に出生)。

甥は俳優・DJ岡田眞善(弟の真澄と真澄の元妻女優藤田みどりの間に出生)。

元義妹は藤田みどりとパントマイマーヨネヤマ・ママコ(両者は岡田眞澄の元妻)。

コペンハーゲン人魚姫の像モデルとなったエリーネ・エリクセンは伯母にあたる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef