E・E・カミングス
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E・E・カミングス
1953年撮影
誕生1894年10月14日
マサチューセッツ州ケンブリッジ
死没 (1962-09-03) 1962年9月3日(67歳没)
ニューハンプシャー州ノースコンウェイ
職業詩人、画家、随筆家、劇作家
国籍 アメリカ合衆国
代表作チューリップと煙突
ウィキポータル 文学
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E・E・カミングスことエドワード・エスリン・カミングス(Edward Estlin Cummings, 1894年10月14日 ? 1962年9月3日)は、アメリカ合衆国詩人画家随筆家劇作家。900篇以上の詩を書いた。e. e. cummings(e・e・カミングス)、e e cummingsと表記されることもある。
生涯

E・E・カミングスは1894年マサチューセッツ州ケンブリッジに生まれた。父親のエドワードはハーバード大学社会学政治学教授で、後にはユニテリアン主義の聖職者になった人物。母親はレベッカ・ハズウェル・クラーク・カミングス。6歳下の妹エリザベスがいる。カミングスは教養ある家庭で育ち、10歳で早くも詩を書いた。Cambridge Rindge and Latin Schoolに進むと、詩や小説を学校新聞に発表した。1911年から1916年までハーバード大学に通い、そこで1915年にB.A.(Bachelor of Arts)を、1916年には英語と古典研究の修士を取得した。この頃、ジョン・ドス・パソスと友人になり、新入生寮に同居した。また、1912年から『Harvard Monthly』にいくつかの詩を発表し、ドス・パソス、S・フォスター・デイモン(英語版)ら「Harvard Aesthetes」のメンバーと学校新聞に精を出した。1915年には『Harvard Advocate』に詩を発表した。

カミングスは早い時期からギリシャ語ラテン語を学んでいて、その嗜好は後期作品のタイトルに見ることができる。たとえば、詩集『XAIPE』はギリシャ語で「喜べ!」、戯曲『Anthropos』はギリシャ語で「人類」、カミングス最長の詩『Puella Mea』はラテン語で「マイ・ガール」の意味である。

ハーバード大学の最後の年(1916年)、カミングスはガートルード・スタインエズラ・パウンドといった作家たちに強い影響を受けた。卒業式では『The New Art』と題した論争的な演説を行ったが、この演説は不覚にも、人気のあったイマジズム詩人エイミー・ローウェルがアブノーマルだという誤った印象を与えてしまい(カミングス自身はローウェルを尊敬していた)、カミングスも悪評を蒙ってしまった。

1917年、カミングスはドス・パソスとともにノートン=ハージェス救急隊に入隊した。自動車(救急車)の目新しさはアメリカ合衆国の教養ある若者にも喜ばれた(歴史的に他の戦争の時より第一次世界大戦中に有名作家がメディカルサービスに従事したのはそのためらしい。ヘミングウェイを含む少なくとも23人の作家が救急隊に入隊している)。事務上の手違いのため、カミングスは5週間ほど救急部隊の任務につけず、その間、パリに滞在した。カミングスはパリに惚れ込んで、生涯を通してたびたび戻るまでになった。

遅れていた任務に就いて5か月後の9月21日、カミングスと友人のウィリアム・スレイター・ブラウン(英語版)はスパイの疑いで逮捕された(2人は戦争について公然と平和主義を表明していた)。カミングスらはノルマンディーオルヌ県ラ・フェルテ=マセにある軍の拘留キャンプ「Depot de Triage」に送られ、そこで3か月半惨めな生活を送った。このキャンプでの体験は、カミングスの小説『巨大な部屋(英語版)』と関係している。

12月19日、政治家にコネのある父親の干渉で、カミングスは拘留キャンプから釈放された。1918年の元日にカミングスはアメリカ合衆国に帰国した。しかし、アメリカ陸軍に徴兵され、11月までマサチューセッツ州のキャンプ・デベンズの第73歩兵師団にいた。

1920年、カミングスは『Eight Harvard Poets』という詩集に自作の詩を発表すると、翌1921年、パリに戻り、そこに2年間暮らした後、ニューヨークに戻った。1920年代と1930年代、カミングスは何度もパリを訪れ、ヨーロッパ中を旅し、パブロ・ピカソらと会った。1931年、カミングスはソビエト連邦に行き、2年後にその時の体験を書いた『Eimi』を出版した。他にもこの時代、『バニティ・フェア』誌の随筆家ならびにポートレイト・アーティストとして北アフリカメキシコを旅している(1924年から1927年)。

1926年、父親が自動車事故で亡くなった。母親も重傷を負った。父親の死はカミングス自身とその作品に重大な影響を及ぼした。この時からカミングスの芸術家としての人生は新しい時代を迎えた。カミングスは詩の中で人生のより重要な面に焦点を当てはじめた。『my father moved through dooms of love』という詩[1]は父親の追憶へのオマージュである[2]

ユニテリアン主義の家に生まれたカミングスは一生を通じて、超越的傾向を示した。円熟と年を重ねるごとに、カミングスは神との「我-汝」関係(I and Thou)に向かっていった。カミングスの日記には「le bon Dieu(神)」への言及が、詩・美術作品の霊感を得るための祈祷((たとえば、「Bon Dieu! 私はいつの日か本当に偉大なことができますでしょうか、アーメン」)同様に繰り返し出てきた[3]。i thank You God for most this amazingday:for the leaping greenly spirits of treesand a blue true dream of sky; and for everythingwhich is natural which is infinite which is yes
大意
我は汝神に感謝します、この驚くべき日の御礼に。


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