DFAレコーズ
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DFAレコーズ
DFA Records
設立
2001年
設立者ジェームス・マーフィー
ティム・ゴールズワージー
ジョナサン・ガルキン
ジャンルダンス・パンクポストパンク・リバイバルニュー・ウェイヴダンスハウスディスコR&Bエクスペリメンタル
アメリカ合衆国
本社所在地ニューヨーク
公式サイト ⇒dfarecords.com

DFAレコーズ(DFA Records) は、アメリカニューヨークレコードレーベルプロデューサーチーム2001年に設立されたインディーレーベルで、2000年代前半にダンス・パンクを広めたレーベルとして知られている[1]。扱っているジャンルはポストパンク系のバンドからダンス・ミュージックエクスペリメンタル系まで多岐にわたる。レーベル名のDFAはDeath From Aboveの頭文字からとられている。目次

1 来歴

2 名称について

3 主なアーティスト

3.1 DFA Records

3.2 Death From Abroad


4 主なディスコグラフィー

5 レーベル・コンピレーション

5.1 DFA Records

5.2 Death From Abroad


6 The DFAのプロダクション作品

6.1 プロダクション

6.2 リミックス


7 脚注

8 外部リンク

来歴

1990年代後半、プロデュース業や自分のパンクバンドで活動していたジェームス・マーフィーと、イギリスの音楽プロジェクト「アンクル」に参加していたティム・ゴールズワージーがデヴィッド・ホルムス(英語版)のアルバム製作中に出会う[2]。意気投合した2人は共通の目標となったロックとダンスミュージックのクロスオーバーを目指し、マンハッタンローワー・イースト・サイドのクラブでパーティーを始めるようになる[3]

1999年、2人はプロデューサーチームThe DFAを結成しプロデュース業を始めた。2001年春、後にレーベルのマネージャーとなるジョナサン・ガルキンとバーで出会ったジェームスは、彼を自分のDJプレイに招待しザ・ラプチャーの「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」やザ・フアン・マクリーンの「By the Time I Get to Venus」を聴かせた。心を奪われたジョナサンはジェームスたちのシーンにのめりこむようになり、勤めていたイベントプロデュース会社を辞めることにする。

2001年9月1日、3人はニューヨークでDFAレコーズを立ち上げた[1]。また、2001年6月にプロデューサーチームThe DFAとしてレディオ4のシングル「ダンス・トゥ・ジ・アンダーグラウンド」と翌年のアルバム『ゴッサム!』をプロデュースし話題となる[2]

2002年、DFAはザ・ラプチャーの「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」をリリースする。この曲はNMESPIN誌がこの年のベストソングの一つに選ぶなどヒットする[4]。後に音楽メディアが発表した2000年代の名曲リストではNMEで6位、ピッチフォークで16位、Resident Advisorで34位、ローリング・ストーン誌で53位に選ばれた[5][6][7]。7月、ジェームスのプロジェクトであるLCDサウンドシステムの「ルージング・マイ・エッジ」をリリースする。この曲もNMEやSPIN誌がこの年のベストソングの一つに選ぶなどヒットする[8]

2000年代の名曲リストではResident Advisorで7位、ピッチフォークで13位、NMEで29位、ローリング・ストーン誌で37位に選ばれた[6][5][4][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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