PDP-10は、1960年代後半からディジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)が製造したメインフレームファミリ[1]。PDPシリーズコンピュータのひとつ。1966年に最初の機種が出荷された[2]。タイムシェアリングシステムを一般に浸透させたマシンであり、多くの大学や研究機関で採用されたことから1970年代のハッカー文化に大きな影響を与えた。PDP-10を導入した主な大学/研究機関としては、MITの人工知能研究所およびProject MAC、スタンフォード大学のSAIL、カーネギーメロン大学などがある。
PDP-10のアーキテクチャはPDP-6とほぼ同じで、36ビットワードである。命令セットは若干拡張されており、ハードウェアの実装は進歩している。命令セットは未だに卓越しているという見方もあり、特に "byte"命令は任意のビットフィールドを操作することができた(この場合の byte は必ずしも8ビットを意味せず「固定ビット数の連続の並び」という意味である)。
機種と技術的進展KA10 フリップチップモジュール(9個のトランジスタを実装)、1971年KI10で使われていたクイックラッチ型メモリバスターミネータ (1973)KL10 のワイヤラッピング方式のCPUバックプレーンKS10
最初のPDP-10のプロセッサは1968年に登場したKA10である。トランジスタをDECのフリップチップ(英語版)技術でパッケージし、半自動化された工程によってバックプレーンのワイヤラッピングが行われている。サイクルタイムは1μ秒、加算命令にかかる時間は2.1μ秒である[3]。1973年、KI10が新たに登場した。これはTTL集積回路を使っている。さらに1975年には高性能なKL10(さらに後にはKL20)が登場。こちらはECLで構成され、マイクロプログラム方式を導入し、キャッシュメモリを搭載している。低価格版のKS10も1978年に登場し、TTLとAm2901ビットスライスチップで構成され、PDP-11のUnibusを使って周辺機器を接続するようになっていた。 KA10の最大メモリ容量は256Kワード(1152Kバイト)である。ページング機構は持たず、2本のプロテクション/リロケーションレジスタ(base and bounds レジスタとも呼ぶ)でメモリ管理を行っている。これによりユーザーのアドレス空間の半分をメインメモリの指定した領域に限定できる。従って、リードオンリーで共有可能なテキストセグメント(high segmentとも呼ばれた)とリード/ライト可能なデータセグメントおよびスタックセグメント(low segmentとも呼ばれた)という後のUNIXでも使われたプロセスモデルが可能であった。MITやBBNでは、KA10 に改造を加えて物理メモリ容量を増やし、ページング機構を追加してデマンドページング KI10およびその後のプロセッサではページング方式が採用され、最大4Mワードの大容量物理アドレス空間をサポートした。KI10の機種としては1060、1070、1077があり、特に1077は2CPUを搭載している。 最初のKL10の機種(1080, 1088など。DECsystem-10とも称した)はオリジナルのPDP-10のメモリバスを使用し、拡張メモリモジュールを追加していた。この場合のモジュールとは筐体(キャビネット)を意味し、高さ180cm、幅と奥行きが70cm程度であり、32kワードから256kワードの磁気コアメモリを搭載できる(本項目冒頭右端にある写真にはそのようなキャビネットが6台写っている)。DECSYSTEM-20 20xxシリーズKLマシンのI/OアーキテクチャはDECの新たなバス MASSbus に基づいていた。UnibusをオープンアーキテクチャとしたことがPDP-11成功の要因のひとつだが、KLにおいてはDECはMASSbusをプロプライエタリとし、従来の方針に戻している。結果としてMASSbus向けの周辺機器を製造するサードパーティは登場せず、DECは例えばRP06ディスクドライブの価格を同等のIBM互換機器よりかなり高く設定することができた。CompuServeはMASSbusに接続可能なディスクコントローラを独自開発したことがあるが、接続したのは IBM 3330 ディスク装置だった。 後に2060プロセッサの Model B 版では仮想アドレス空間の256Kワードという制限を取り払い、最大32個の256Kワードまでの「セクション」を構成可能にして命令セットもそれに応じて変更した。
KA10
KI10 と KL10
MASSbus
Model B