DDT
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260 ℃ [1]
危険性
EU分類 T N
RフレーズR25 R40 R48/25 R50/53
SフレーズS1/2 S22 S36/37 S45 S60 S61
半数致死量 LD50113 mg/kg (rat)
特記なき場合、データは常温 (25 °C)・常圧 (100 kPa) におけるものである。
第二次世界大戦頃にアメリカ軍で使われた携行式DDT散布器

DDT(ディー・ディー・ティー)とはdichlorodiphenyltrichloroethane(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の略であり、かつて使われていた有機塩素系殺虫剤農薬である。日本では1971年昭和46年)5月に農薬登録が失効した。なお、上記の名称は化学的には正確ではなく、「4,4'-(2,2,2-トリクロロエタン-1,1-ジイル)ビス(クロロベンゼン)」が正確な名称である。DDTの構造中で、トリクロロメチル基がジクロロメチル基となったものをdicholorodiphenyldichloroethane(英語版)(ジクロロジフェニルジクロロエタン、DDD)という。
殺虫剤としての利用

1873年オーストリアの化学者オトマール・ツァイドラー(ドイツ語版)によって初めて合成された。それから長きにわたって放置されてきたが、1939年スイスの科学者にしてガイギー社の技師、パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された[3]。彼はこの功績によって1948年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。その後、第二次世界大戦によって日本除虫菊の供給が途絶えたアメリカによって実用化された。非常に安価に大量生産が出来る上に少量で効果があり、ヒトや家畜に無害であるように見えたため爆発的に広まった。アメリカ軍は1944年9月から10月のペリリューの戦いで戦死体や排泄物に湧くハエ退治のためにDDTを初めて戦場に散布した。だが激戦のペリリュー島では死体が多すぎて、効果は限定的だった[4]

日本では、第二次世界大戦後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによるシラミの駆除、防疫対策として初めて用いられた。初回の散布は1945年(昭和20年)9月10日、アメリカ軍機で立川基地上空からの散布[5]を皮切りに、各地方都市でも空中散布が行われた[6]外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に薬剤を浴びせる防除も積極的に行われ、その風景は、ニュース映画として配給された。また、米軍機から市街地に空中撒布することもあった衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用された。

日本では、1945年10月に京都大学工学部化学科の宍戸教授の手によって実験室での合成には成功していたが、工業的合成は難しかった。理由としては製造特許を持つガイギー社が製品の海外輸出を禁じたためである。戦後アメリカから日本に輸出されたものは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの援助として特別に許されたものであった。そのため、日本の農薬メーカーの技術開発は、次第にBHC(ベンゼンヘキサクロリド)に向けられていった。

1950年代八丈小島フィラリア駆除のため、溶岩地帯の水溜まりに向けて、ヘリコプターを用いたDDTの空中散布が行われた事がある。詳細は「八丈小島のマレー糸状虫症」を参照

2007年現在で主に製造している国は中国インドで、主に発展途上国に輸出されマラリア対策に使われている。農薬としても一部で使用されており、残留農薬となったDDTが問題になることもある。

DDTの分解物のDDE、DDAは化学的に非常に安定しており、分解しにくく環境中に長く留まり影響を与える可能性があり、また食物連鎖を通じて生体濃縮されることが分かった。
合成法

クロロベンゼンクロラールを酸性条件下で加熱することによって製造される。
法規制

1981年化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律第一種特定化学物質に指定され製造と輸入が禁止されている。

2001年に採択されたストックホルム条約において、残留性有機汚染物質 (POPs) に指定された。

マラリア対策として、2006年9月15日にWHO(世界保健機関)からDDTの室内残留性噴霧を奨励する方針が出された。

環境汚染物質として

アメリカの野生ワニなどで環境ホルモン作用が疑われた。このため、現在[いつ?]は日本国内においては製造・使用・輸入が禁止されているが、一部の発展途上国においてはマラリア予防のために使用されている。

化学物質としての危険性については、1962年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』により取り上げられ、認識が広まった。

現在[いつ?]でも、危険性の高さを印象づける名称として、プロレスの技(DDT (プロレス技)参照)、グループ名、諸団体の名称などに当て字で使われることが多い。又ソフトウェアバグ(虫)退治の意で、CP/MデバッガにDDT.COMというものがある
発癌性

一時期、極めて危険な発癌物質であると評価されたため、各国で使用が禁止された。現在[いつ?]、国際がん研究機関発がん性評価ではグループ2Bの「人に対して発がん性が有るかもしれない物質」に分類されている[7]
規制後の問題 (発展途上国におけるマラリアの蔓延)

先述の通り、DDTは世界各国で全面的に使用が禁止されたが、経済的にも工業的にも弱体である発展途上国ではDDTに代わる殺虫剤を調達することは困難であり、DDT散布によって一旦は激減したマラリア患者がDDT禁止以降は再び激増した。

例えばスリランカでは、1948年から1962年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数を31人にまで激減させることに成功していたが、予算節約の為にDDT散布を中止した結果、DDT禁止後には、僅か5年足らずで年間250万に逆戻りしている[8]

事態を重く見たスリランカ政府はDDTを再度使用するが、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」内で述べている通り、DDTに対する耐性を獲得したマラリア蚊もDDT散布後数年以内に多数報告されており、DDTを散布しても効果が無く再びマラリアが激増してしまった。農薬としての規制後もマラリア用には認められていたものの、手に入らなくなっていた[9]。スリランカ政府がDDTの代わりにマラチオンを散布する事で、スリランカのマラリアは1990年?1993年に28万人?32万人台へ、1994年?2000年に14万人?27万人台へ、2001年に6万6522人、2002年に4万1411人、2003年には1万 510人と減少していった[10]。また、発展途上国ではDDTに代わって、パラチオンなどのDDTよりも毒性が強いことが判明している農薬が使用されている実態もあった(なお、パラチオンは日本を含む主な先進国では使用が禁止されている)。

2006年よりWHOは、発展途上国においてマラリア発生のリスクがDDT使用によるリスクを上回ると考えられる場合、マラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを認めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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