この項目では、航空機について説明しています。日産自動車がかつて生産した乗用車の型式については「ダットサン・フェアレディ」をご覧ください。
DC-3 Flygande Veteranerカラーによる、リディンゲ
(英語版) - スウェーデン間のスカンジナビア航空の飛行(1989年)ダグラス DC-3(ダグラス ディーシースリー、Douglas DC-3)は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるダグラス・エアクラフト社(現ボーイング社)が開発した双発のプロペラ旅客機・輸送機である。1936年運用開始。アメリカ軍用輸送機としての制式名称「C-47 スカイトレイン」(C-47 Skytrain)、イギリス軍用輸送機としての名称「ダコタ」(Dakota)でも知られる。 DC-3は飛行性能と輸送力・経済性を高い水準でバランスさせた希有な機体であり、1930年代 - 1940年代において世界の航空輸送変革の原動力となった不朽の傑作機である。事実上、世界で最初の本格的商業旅客機と言ってよい。その影響故に、第二次世界大戦後のジェット旅客機ボーイング707および747と並ぶ、民間航空史上もっとも重要な機体の一つとされている。 1945年までにDC-3は1万機以上が製造されたが、これは双発輸送機としては屈指の量産記録である。もっともその多くは当初連合国軍用輸送機C-47として製造され、第二次世界大戦後に民間輸送機仕様に改造されてDC-3となったものである。合衆国以外にも、日本とソビエト連邦でライセンス生産が行われた。 2017年現在、世界に残存する飛行できる機体は150機程度と推測されている[4]。 1920年代以降、広大なアメリカ国内での新しい高速輸送手段として航空機は急速に台頭し、フォッカー F.VIIのような3発のエンジンを持ち10人程度の定員を持つ旅客機や、全金属製の3発機であるフォード トライモータが登場した。 しかしながら、これらの機種は航続距離が短く巡航速度が低いために、アメリカ大陸横断の為には複数回の離着陸が必要なだけでなく、座席数も積載貨物重量も低く経済性も低かった。この様な状況を受けて、トランスワールド航空やユナイテッド航空、パンアメリカン航空などの大手航空会社は、全金属製でより多くの積載量を持ち、かつ自動操縦装置や引き込み脚などの最新技術を採用した旅客機の開発を、ダグラスやボーイング、カーチスなどのメーカーに対して打診した。 トランスワールド航空のオファーを受けて、ドナルド・ダグラス
目次
1 概要
2 沿革
2.1 開発の過程
2.1.1 DC-1とDC-2
2.1.2 DC-3
2.2 第二次世界大戦
2.2.1 C-47 スカイトレイン
2.2.2 日本のDC-3
2.2.3 ソ連のDC-3
2.3 戦後のDC-3
2.4 第一線からの退役
2.5 現在
3 派生型
3.1 ターボプロップ改造型
4 スペック
5 主な導入航空会社
5.1 ブライトリング DC-3
6 主な事故
7 登場作品
7.1 映画
7.2 マンガ
7.3 ゲーム
7.4 小説
8 脚注
9 関連項目
概要
沿革
開発の過程 フォード トライモータ
DC-1とDC-2 トランスワールド航空のDC-1 KLMオランダ航空のDC-2
これらは、全金属製モノコック構造を持ち、引き込み脚、可変ピッチプロペラ、高揚力確保のためのフラップを採用するなど近代的旅客機に不可欠とされる構造・装備をほとんど具備しており、進歩的な機体であった。DC-2の持つ、1930年代前期の双発旅客機としては多人数といえる14名の定員と、機内空間を有効活用できる胴体設計も大きな長所で、当時の航空会社から歓迎された。
アメリカン航空は1933年に、北米大陸横断航空路に初の寝台旅客機「カーチス・コンドルII」を就航させた。しかしこの機体は鋼管羽布張り構造の複葉式であるなど古典的な設計の機体であり、登場して間もない1930年代中葉には既に旧式化しつつあった。また、ボーイングが開発したボーイング247はその性能や技術は申し分のないものであったが、引渡しを系列企業であるユナイテッド航空に優先配分していた。このためアメリカン航空は、DC-2をベースにした寝台旅客機をダグラス社にオーダーすることにした。
その開発は1935年中頃から開始された。列車同様なプルマン・スタイル[5]の開放式寝台を配置するためには、DC-2は機体幅がやや不足することが指摘された。そこで機体幅が若干拡大された。
僅か半年余りで急ピッチの開発・製作が進められ(DC-2の拡大設計から始まったが、実際には機体の大部分を新設計せねばならなかった実情からすれば、かなりの早業である)、1935年12月17日に初飛行したこの寝台機は、Douglas Sleeper Transport、略してDSTの名称で呼ばれた。DSTは14名分の寝台とキッチンを備え、途中一度の燃料補給のみで北米大陸を横断できる長距離快速機で、1936年に就航してアメリカン航空の看板旅客機となった。
DC-3 アメリカン航空のDC-3 DC-3の機内客室。2.4m級の幅員は、4列シート配置にも耐えるものであった
DSTはDC-2に比して機体幅が拡大されていたが、この大型化は良い方向に働いた。DC-2では客室中央通路の両側に1列ずつ計2列しか座席を配置できなかったが、DSTの幅員であれば片側にもう1列増やした3列配置ができたのである。従って寝台の代わりに通常座席を配置すれば、定員はDC-2の1.5倍、21人を確保できる(後には4列座席としてピッチを詰め最大32人定員としたケースもある)。
DST完成後すぐに派生型として、この広いキャビンを活用した通常座席型バージョンが開発された。これがDC-3である。DSTを試作済みであるので座席型の試作機は製作せず、当初から生産型としてロールアウトした。1936年6月にアメリカン航空の手で初就航したDC-3は好成績を収め、アメリカン航空をはじめ、トランスワールド航空、イースタン航空といった全米に航空網を持つ大手航空会社がこぞって採用、当時のアメリカ民間輸送機市場を席巻するベストセラー旅客機となり、1939年までに600機以上が製造された。また、ヨーロッパでも英国海外航空やスイス航空などに導入されている。
DC-3の偉大さは、DC-2に比して定員を5割増としながら、その運航経費は僅か3%ほどの増に過ぎなかったという事実に端的に表われている。DC-3登場より前のアメリカ合衆国の航空旅客輸送は、旅客運賃収入だけでは必要なコストを賄えず、連邦政府の郵便輸送補助金を受けることで何とか成り立っていた。ところがDC-3はその大きな輸送力ゆえに、自らの運賃収入だけで運用コストをまかなえるようになったのである。郵便補助金に頼る必要のない「飛ばして儲けの出る飛行機」の出現は、航空輸送の発展における重要なエポックであった。
しかもDC-3は1930年代中期の機体としては快速で、飛行特性も非常に安定しており、エンジン脱着が短時間で可能であるなど整備もたやすく、ユーザーにとって実に扱いやすい機体であった。これらはDC-2から受け継いだ美点であり、さらに収容力を大幅に向上させていたことは、まさに当時における理想の旅客機の具現化というべきものであった。 DC-3の信頼性と絶大な輸送能力は、航空会社のみならず各国の軍関係者にも注目された。通常型の旅客設備を撤去した輸送機型とすれば、軍用輸送機としても非常に理想的な機体となるからである(輸送機タイプの貨物搭載能力は2.7t)。なお民間型のDC-3の生産は、第二次世界大戦中の1943年に終了した。
第二次世界大戦
C-47 スカイトレイン詳細は「C-47 (航空機)」を参照 アメリカ陸軍航空隊のC-47A